幻想酒場漂流記 第七夜 幸運な一日

幸運な一日 1


 秋のよく晴れた水曜日の気だるい午後、普段はあまり付き合いのない取引先の、初めて聞く名前の課長から、俺宛に突然電話がかかってきた。


 数分後、俺は慌てて新製品の資料とサンプルを抱えて会社を飛び出した。


 これまでその取引先とは、それほど懇意にしていたわけではない。現場の担当者にはそれなりに馴染みがあったものの、正直言って本社の管理職となると滅多に会える機会がなかった。


 ちょうど暇そうにしていた同期の古屋を誘ったのは、正直多少の心細さがあったからである。本来はせっかくのチャンスを一人で掴みに行かねばならないところだが、俺は少々ビビりなのだった。


 いやしかし、断じてそんなことはない。俺にはこっそり手柄を独占するような、独りよがりの出世欲など持ち合わせがないのだ。


 万全を期して古屋と二人で向かえば先方にはこちらの熱意と誠実さが伝わり、きっといいプレゼンテーションができることであろう。これぞ誠のチームワークというものだ。


 都心にある俺のオフィスから電車で約一時間の移動で、神奈川県の海辺に近いその街へ到着した。


 駅の改札を出て徒歩数分の場所に、取引先のオフィスはある。


 それから約一時間、俺たちは新任の課長を相手に新製品の詳細な説明と、今後の開発計画を説明し、自社製品の優位性をこれでもかと強調しながら、この製品を利用した場合の簡単な事業計画のモデルまで提示して、プレゼンを終えた。


 更にその後一時間ほどを質疑応答と雑談に費やして、突然の訪問を終えた。


 終始和やかな雰囲気で会談を終えて、俺たちは大きな手応えを感じて肩の荷を下ろした。これが連携の力、組織力の勝利である。


 というほど大げさなものではないが、帰りのエレベータに乗り込み二人きりになった時には、どちらからともなく顔を見合わせて拳を握り、深く頷きあう程度の達成感はあった。


 駅前のカフェで一服してから会社に戻ろうかと古屋に提案すると、それよりも一杯やらないかと珍しいことを言う。


 確かにこれから会社に戻っても、上司への報告は明日になるだろう。終業時間にはやや早いが、せっかく気分よく今日の仕事を終えられるのだから、軽く祝杯を上げるくらいは許されるに違いない。


 巨大な駅ビルを横目に眺めながら、まだ明るい表通りを避けて繁華街の裏道へと足を踏み入れた。


 周囲を大きなビルに囲まれた、薄暗く怪しい一帯である。


 戦前からある古い二階建ての木造店舗が密集する路地裏に迷い込むと、ちょうど小さな島の中を歩いているようである。


 車が一台通るのが精いっぱいという道沿いに、飲み屋の薄暗い看板が並ぶ。派手なネオンは不思議と目につかない。


 中には見慣れた居酒屋のチェーン店や、路上まではみ出したオープン席にレゲエ音楽が誘いをかけるような店もあるのだが、全体的に地味な居酒屋やバーが多い。


 適当に角を折れて更に迷路の先へ踏み込むと、車も入れない路地の奥へと導かれた。擦り切れた暖簾やひしゃげた看板の間に、ポツポツと、赤提灯が並んでいる。


 俺たちはその中で比較的清潔そうに見える一軒を選んで、暖簾をくぐった。


 曇りガラスの引き戸を開くと左にカウンター席が見えた。コの字を描くカウンターの右下角がこの入口で、古い木製の丸椅子がぐるりと十数脚並んでいる。


 椅子の後ろは通路と壁で比較的ゆとりがあるが、テーブル席を置けるほどではない。


 痩せた中年男が左手のカウンターの中から陰気な小声で挨拶をするが、奥の席に陣取った酔っ払いがその声に被せるように大声で呼びながら、俺たちを手招きする。


 何だか知らないが、既に相当出来上がっているようだ。


 絡まれると面倒なので酔っ払いオヤジには近寄らず、ちょうどコの字の真ん中下辺りに二人で並んで腰を下ろした。


 壁面には料理のメニューを書いた紙の短冊がぶら下がり、カウンターの上には本日のおすすめ料理を書いた黒板と飲み物のメニューがある。


 当然、手元に洒落たお品書きなどは置かれていない。料理と飲み物の金額を見て庶民的な店であることを確認してホッとする。


 合成樹脂の箸が詰め込まれた箸立の横に置かれたウェットティッシュのパッケージにマジックで「おしぼり」と書かれているので、それをしゅしゅっと引き出して先ず手と顔を拭った。


 店主はやけに顔色が悪く不機嫌そうで、注文したビールの大瓶をカウンターに乱暴に置くと、お通しにマグロの刺身を切るので、とぼそぼそ言う。


 そりゃいいなと、俺たちは喜ぶが、店主は不機嫌そうな表情のまま、今日は店を早く閉めたいのでそれを食べたら帰ってくれと小さな声でぶつぶつと続けた。


 あまり歓迎されていない気がするが、とりあえず二人でグラスを合わせて冷えたビールを一息に喉へ流し込んだ。


 カウンターの中では、慣れた手つきで店主がマグロのサクを大ぶりの切り身にしている。今日はこれしか出せないと言いながら、お通しにしては異常に豪華な皿になりそうだった。


 古屋は最近子供が生まれたばかりで、仕事が終わるとさっさと家に帰ってしまう。以前は二人で夜の街を飲み歩くことも多かったのだが、ここ半年くらいはご無沙汰であった。


 久しぶりということと、思いがけず舞い込んだ今日の仕事が早く済んでしまい、こんな早い時間から乾杯できることに面食らっている。順調すぎて逆に怖いくらいだ。


 追い打ちをかけるように小鉢と言うには大きすぎる器に生きのいいマグロが山盛りになってドンとカウンターへ置かれて、思わず身を引いた。


 これがお通しとは、なんという店だ。嬉しい反面、一体いくらとられるのだろうと心配にもなる。


 二杯目のビールを飲み干した時に、カウンターに乗せた古屋の電話がブルブルと震えた。発信者の名前をちらりと見て、古屋は慌てて腰を上げる。


「ちょっと悪いな」


 古屋はそう言い残して、電話を持って店の外へ出て行った。その間に二本目のビールを注文していると、奥の席でつまらなそうに飲んでいた酔っ払いと目が合ってしまった。


「よう、兄ちゃん」

 赤い顔のオヤジが、すかさず俺に声をかけてくる。


「何ですか?」

「兄ちゃん、この辺の人じゃないだろ」


「ええ」

「どっから来たのよ?」


「東京から」

「そうか。今日はゆっくりして行きな」


「いや、でも大将がなんか早く店を閉めるって・・・・・・」


 そう言って俺はカウンターの中をちらっと見た。店主は退屈そうな顔で洗い物をしている。


「いいんだよ。兄ちゃん知らねえのか? 今、この外はちょっと物騒なんだぞ」

「何かあったんですか?」


 そう言われてみると、店の外ではパトカーや救急車のサイレンが重なるようにあちこちで聞こえて、何やら騒々しい気配になっている。


「気を付けろよ、さっき殺人事件があったばかりだ」


 オヤジは俺の顔を舐めるような目で見ながらにやりと笑う。

 酔っ払いにかつがれているだけだろうか?


「殺人事件ですか?」


 そう聞くと、外に出た古屋のことが気がかりだ。


「犯人はまだ捕まっていないらしいぜ」


「そりゃあ本当に物騒ですね・・・・・・」


 俺はカウンターの店主と酔っ払いのオヤジを交互に見る。


 この二人が犯人ってことはないだろうが、この場で後ろの戸が突然開いて、凶暴な犯人が逃げ込んで来るとも限らない。急に不安になった。



  

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