幸運な一日 2

 

「よう、兄ちゃん、甘いもんは好きか?」


 その間に酔っ払いオヤジは俺の近くに寄って来て、何故か隣の席に腰を下ろすと、俺の肩をなれなれしく叩く。


 殺人事件の話はどうなったのかと思うが、それよりも酒臭いオヤジの顔が近い。


「いや、甘いものは苦手で・・・・・・」


 面倒なことになってきた。早く古屋が帰って来ないかと入口の戸を振り返るが、その気配はない。


「そら、どうだ。これを知ってるか?」


 オヤジは潰れた紙の箱から潰れた饅頭のようなものを取り出して、俺の前に差し出した。


「何ですか?」

「こりゃ、お前、名古屋の名物でカエルまんじゅうっていうのさ。知らないか?」


「初めて聞きました」

「そうか。じゃあ、うまいから食ってみろ」


 そう言って無理やり俺の手に押しつける。


 仕方なく無残に潰れた小さな包みを開けると、潰れたガマガエルのような不気味な姿が現れた。


 この見た目では食い物とは思えず、売れるはずがない。きっと本来はもっとキュートな姿をしていたのだろう。哀れである。今ではすっかり呪いのアイテムだ。


 いくらなんでも、これを口に入れる勇気はない。掌の上の悪魔の使いのような物体を持て余していると、オヤジは怪訝な顔で俺を見つめる。


「なんだ、食わねえのか?」


 無言で俺はもう一度悪魔の使いに目を移す。するとオヤジの手が伸びてそれを掴むと、唖然として開けたままの俺の口の中へ、無理やりねじ込んだ。


「どうだ、うまいだろう?」


 俺は涙目になって、うんうんと頷きながら、咀嚼する。確かに、味は悪くはない。しかし、なんでこんな目に合わねばならないのだ。


 救いを求めて店主の方へ眼をやるが、相変わらず下を向いて洗い物の手を休めようともしない。


 気分が悪くなってきたので、トイレへ行こうと席を立った。


 途端にカウンターの中の店主が顔を上げてこちらを見た。その鋭すぎる目つきにたじろいで、一歩下がると、低い声で店主が言う。


「お客さん、どちらへ?」

「いや、ちょっとトイレに」

「トイレはこちらです」


 店主の示す店の奥へ俺は向かう。トイレの扉を開けながらちらりとカウンターの中を見ると、店主の右手に細い柳刃包丁の刃がきらりと光った。


 食い逃げとでも勘違いされたのだろうか。古屋の荷物もまだ席に置いたままなのに。


 急いで席に戻るのも嫌なので、トイレでゆっくりと用を足して深呼吸してから戻ると、カウンターの上に千円札が一枚乗っている。


「よう、兄ちゃん。あんたの連れは急用で先に帰るってよ。すまねえって謝っていたぜ」


 酔っ払いはそう言って、千円札を指差す。まさか古谷はこの二人に消されたのか、などと余計なことを考えてしまう。


 確かに古屋の姿はなく、椅子の上に置いていた鞄も消えている。辺りをよく見たが、床に血痕があるわけでもなく争った形跡もない。しかし何か不穏で不気味な気配がする。


 すると、入口の戸が勢いよく開いて、二人の警官が店に入って来た。


「こんにちは、ちょっとお邪魔しますよ。何か変わったことはありませんか?」


 陰気な店主は顔を伏せたまま、「ご苦労様です」と口の中で呟いている。


「何があったんですか?」


 酔っ払いのオヤジから殺人事件と聞いて少し怯えていた俺は、ホッとした気分で警官に尋ねる。


「ええ、駅の近くの路上で人が刺されたんです。犯人は凶器を持ったまま逃走中なんで、充分に気を付けてください」


「ああ、それでこの騒ぎですか」


「怪しい人物を見かけたら、すぐに警察へ通報してください」


 目の前にいる頭のおかしい酔っ払いが、まさにその怪しい人物候補筆頭だと思うのだが、警官はただのだらしない酒飲みと思っているのか、そちらへ目を向けることすらなく、気にも留めていない。


 確かに、殺人事件の犯人がこんなところで呑気に酔っ払っているとは思えないが。


 そして、念のため、と言って警官は俺の免許証と社員証を確認してから、俺の名刺を一枚受取ると、慌しく店を出て行った。


「今日は早く帰った方がいいですよ。暗くなると危険ですから。なるべく明るい大通りを歩いてくださいね」


 帰りがけに、警官は俺の方を見てそう言った。その通りだと、俺も思う。目の前のオヤジはゆっくりして行けと言うが、一刻も早く逃げ出したい気分だ。


 それにしても、先に出た古屋のことが気にかかる。


 携帯へ電話を掛けてみるが、電話に出ない。SNSでメッセージを送り返事を待つが、既読も付かない。


 気付けばひどく喉が渇いていて、残ったビールをグラスに注いで一気に飲み干した。


 変なまんじゅうを食べさせられたせいで、食欲はない。結局せっかくの刺身には手を付けず、二本目のビールもキャンセルして、勘定を払って俺は店を出た。


 とんでもない時にとんでもない店に入ってしまった。まったく酷い目にあった。


 何て運のない日だろう、と思いながら薄暗い路地から車のやっと通れる細道へ出るとすぐに、俺は待ち構えていた警察官に取り囲まれた。




 東吉次郎は元々、品川の老舗寿司店の職人であった。


 真面目に修行をして腕も良く店主の信頼も厚かったが、三十路を過ぎて常連客に誘われて休日に競輪へ行ったのがきっかけでギャンブルにのめり込み、気が付けば借金を重ねて店を放り出されていた。


 根が真面目だっただけに、一度のめりこむとどこまでも進んでしまうのが東の悪いところである。


 その後、川崎・横浜・横須賀と寿司店を転々として、今では横須賀の繁華街にある回転寿司の職人として働いている。


 近頃は借金が増えて人相の悪い男たちに付け回されることも多くなり、住居や職場を移る回数も増えている。


 その日の午後、仕事場へ向かう途中で古い知り合いに見つかり、昔の金銭トラブルが蒸し返されて喧嘩となった。


 相手は競艇場で幾度か会っただけの男で、東は名前も思い出せない。


 そんな、ろくに顔も覚えていない、知り合いとも呼べないような関係であったが、一度だけ、騙して金を巻き上げたことがあったような気がした。


 しかし、金を盗られた相手は東の顔を良く覚えていた。


 そのままひと気のない路地裏へ引き込まれて二人で言い争ううちに、掴み合いとなる。


 揉み合いの中で持っていた商売道具の柳刃包丁で相手を脅して、なんとかその場を切り抜けようと軽く振り回していた。


 そこへ運悪く通りがかった男が、止せばいいのに二人を仲裁しようと割り込んで、話が余計にややこしくなる。


 結局、東はその場から逃げきれずに、怒鳴り合い、揉み合い、掴み合いの修羅場に発展してしまった。一度頭に血が上るとすぐに冷めないのが東という男である。


 ついには勢い余って仲裁に割って入ったその見知らぬ男の腹を、包丁で深く刺してしまった。


 それを見て悲鳴を上げて逃げようとする昔馴染みの男を追いかけて今度はその背中をひと突きして倒し、パニックになって東はその場を逃げ出した。


 東は慌ててその場を離れたが、返り血をたっぷりと浴びていて、そのままではかなり目立ってしまう。


 必死で走って逃げて、人の気配のない路地裏へ隠れて、赤く染まった上着を脱ぎ両手の血を拭う。


 そのまま薄暗い迷路のような道を走るが、よく見ればシャツも血まみれで、このままでは明るい場所へは出られそうにない。


 ちょうど通りかかった小さな居酒屋の勝手口が半分開いていたのでそっと中に入り、誰もいなかった厨房の流しで水を飲んだ。


 遠くに聞こえるパトカーのサイレンが、四方から自分に向かって近付いているように感じる。


 血に濡れたシャツも脱いで、手や顔に付いた血をステンレスの流し場で洗い落としているところへ、店の方から厨房へ入って来た店主と鉢合わせしてしまった。


 東はべっとりと血に染まった包丁を洗い流しているところを見られてしまい、再び頭に血が上った。


 驚いて人を呼ぼうとする店主に駆け寄ると、逃げようとするその背中へ包丁を突き立てた。ついに、これで三人目である。


 店主は小さくうめいて背中に包丁を突き刺したまま前に倒れ、厨房の床に転がった。

 自分の包丁を残したまま逃げるのはまずいだろうと、さすがに東は思う。


 店主の背中に突き立つ包丁を、すぐに引き抜かねばならない。


 だが、抜けばまた血が噴き出てせっかく洗った返り血をまた浴びるかもしれない。


 そうして一瞬躊躇しているうちに別の人の気配を感じて顔を上げると、カウンターの向こう側、薄暗い店内に人影が見えて立ちすくんだ。


 店の中には、中年の男がひとり立っていた。

  



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