幻想酒場漂流記 第二夜 掃除屋
掃除屋 1
渕上一郎は無類の酒好きである。
おおよそ世の中に存在するどんな種類の酒でも好んで飲むが、中年太りの腹回りが気になりだした昨今は、カロリーが低めなウイスキーや焼酎を飲むことが多い。
人間ドックの前日だろうがインフルエンザで高熱を出して寝込んでいようが、お構いなしに毎日取りつかれたようにアルコールを摂取する。
恐らく最近五年ほどは一日も欠かさずに飲み続けているのではなかろうか。
それでも本人は、自分がアルコール依存症であるなどとは夢にも思っていない。
酒なんてものは飲みたい時に飲むもので、自分はその気になればいつでも飲まずにいられるのだ。そう固く信じて疑わない。
たまたまこの五年間は、一度もその気にならなかっただけのことである。
とはいえそのアナーキーな思考とは逆に飲み方はいたって穏やかで、泥酔して他人に迷惑をかけるようなことはなく、ましてや人前で暴れるようなことなど決してない。
休日に家にいるときも、明るいうちから酒を飲んでうたた寝をするような自堕落な真似もしない。
陽が傾いてから風呂上りに飲む一杯のビールを楽しみにして、一日をじっと待つことくらいはできる。
その極めて温厚な酒飲みである渕上だが、一人娘が中学生になる頃から家では酒を飲んで寛ぐことが難しくなりつつある。
特に妻や娘が口うるさく酒を止めろなどと言うわけでもない。
妻も娘も渕上に似て物静かで口数の少ない性質で、必然的に渕上家の居間はひっそり落ち着いた空気に支配されている。
一緒にテレビのお笑い番組を見ていても、上品にくすくす笑う二人の女性を前に大きな笑い声を上げてしまい、たまに白い眼で見られる程度のことである。
今では高校生になった娘と直接話すことも少なくなり、アルコール飲料に対する家庭内のやんわりとした拒否感が妻子の纏うオーラに確かな色として表れている。
そんな微妙な空気を敏感に感じ取るようになって、臆病な中年男は自分の家の中に居場所を失うことになるのだった。
渕上にはこれといった趣味もなく、休日は家にいることがほとんどなので、家で飲むのはある程度仕方がないと妻子も諦めているようだった。
休日の昼間から渕上が外で飲み歩くようになってはいけないと、家族は警戒しているのかもしれない。
その分、仕事のある日には必然的に帰り道で一杯やって帰ることが多くなった。
今ではほぼ日課と化して、たまに早く家へ帰ると妻子からは不審な目で見られるようになっている。
ここまでは、家に早く帰りたくない日本の社畜たるサラリーマンの事情としては、特に珍しくもない。
渕上のやや変わった部分は、馴染みの店を作らずに、帰りに一杯やっていく店が毎日のように違うということだった。
以前は気の合う仲間と会社の近所で飲み歩くことが多かったのだが、長年飲み歩いた仕事仲間は一人また一人と病に倒れ、或いは単身赴任で地方へ飛ばされ、次第に渕上と同行する酒の席からは遠ざかった。
そのころから仲間内では鋼鉄の肝臓と評された渕上の肉体は何の異常も発現せずに健康そのもので、人間ドックの結果も年齢と運動不足を考慮に入れれば特に文句のつけようがない。
休日には余程のことがないと出かけることはなく家で晩酌をする程度であるが、平日には家の最寄駅を中心に、安い飲み屋を探して一人で飲み歩く日々だった。
渕上の家から徒歩十分ほどの場所にある最寄りのJR駅は古い商店街に囲まれた賑やかな町で、多くの飲食店が軒を連ねている。
駅前の雑居ビルには若者が集まる大きなチェーン店が進出しているが、一歩裏道へ入れば昔からの小さな個人経営の店が数多く残っている。
以前は気に入った店に毎日通っていたのだが、今では同じ店に続けて行くことは少ない。
仕事仲間と飲み歩いていたころから、渕上の行く先々で馴染みの店がいつの間にか消えていることが多かった。
その理由は多岐にわたり、不測の事故や食中毒などによる営業停止、店主の怪我や病気、後継者不足や単なる経営不振等様々で、従業員が店の運転資金をそっくり持ち逃げしたこともあった。
そうしてあちこちの店を彷徨い歩くうちに、渕上は飲食業界の厳しく困難な経営状況を身に染みて感じたのである。
しかし、実は仲間内でもそんな風に思っているのは、渕上だけであった。
何故か渕上が気に入り好んで通っていた店は次々と店を畳んだが、他の仲間が行く店にはそんな逆風ばかりが吹き荒れているわけではない。
彼らにとっては、たまたま渕上と一緒に良く行く店が潰れた、程度の感想しか残らない。
そうこうしているうちに渕上の飲み仲間も次第に姿を消して、気付けば渕上一人が夜の街に残された。
それからしばらくして、渕上はこの街の飲み屋街を孤独にさすらうことになる。
この街で初めに一人で通った店は、渕上もよく覚えている。
駅から家まで歩いて帰る途中、住宅街の角にある「発心」という名の手打ち蕎麦屋で、会社員だった主人の趣味が高じて定年前に会社を辞めて開店した店であった。
店主が自宅の一階を改装して小さな蕎麦屋を始めて以来早十年、今では近所でも評判の人気店となっていた。
渕上は通勤の行き帰りに店の前を通りながら、一度入ってみたいと思っていたのだが、なかなか機会に恵まれなかった。
家へ早く帰りたくないなと感じ始めた渕上が最初に足を向けたのは、そんな素朴でどこか懐かしいような店であった。
「蕎麦処発心」は、予想通りに落ち着く場所だった。
これはもうこれから毎日この店でのんびりと焼酎のそば湯割りなどを飲み、手打ちの美味い蕎麦を食べて帰れば良いのだと、大いに安心したものだった。
店の主人や常連客も古くから地元に暮らす気の良い住民で、その居心地の良さと言ったらなかった。
季節の野菜や山菜を使った天ぷらと炙ったスルメやイワシなどの素朴なつまみを楽しみながら飲む焼酎の味は格別で、まるで自宅で寛いでいるように思えた。
ところが、そんな幸せも半年と続かなかった。ある週末、その店は不審火で丸焼けになってしまったのだった。幸い近隣への延焼もなく怪我人もいなかったのだが、主人夫婦は店の再建を諦め土地を売って田舎へ帰ってしまった。
それから渕上が関わった店が何軒消えたであろうか。
足繁く通う店の悉くが何らかの理由で店を畳んだ。最短ではすぐ翌日。最長でも半年。幸い、その事と渕上の存在を関連付けて考える者は誰もいなかった。
渕上はふと立ち止まり、若いころから自分の歩んできた茫漠たる不毛の大地を振り返り見て、慄然とする。
貧乏神。その三文字が頭に浮かぶ。
過ぎし日々に世の中から消えていった多くの店にとっては、死神に等しい貧乏神である。
会社の近所で昼食によく使う店は、それほどでもなかった。恐らく、店での滞在時間が短いためであろうか。
立ち食い蕎麦屋に牛丼屋やカレー屋などは、入っても十分足らずで出てしまうので、大した影響もなくそのまま残っている。
しかし、夜に立ち呑みをしていたうどん屋などは、入れ替わりが激しかったように思う。
確かに、渕上が好んで夜に通った店はその殆どが残っていない。これはさすがに異常な事態であると、改めて実感する。
もう、酒を止めよう、そう初めて思ったのも、その時だった。
しかし、止められなかった。
今でも、こうして日々その身から漂う黒い瘴気を街へ振りまきながら徘徊することを止められない。
僅かな酒と肴を求めて、今日も渕上は夜の街を彷徨う。
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