魔法の杖 3


 

 奈美恵は咄嗟に他の四人の顔を見た。


 皆、目を見開いたままお互いに顔を見合わせていた。こんな風に気楽に挨拶をされるとは思ってもいなかったのだろう。


「まさかぼくのことを忘れてはいないよね」


 皆一様に目と口を開いたまま思考が停止しているようだった。


「ぼくの名前はフレア。みんなと会うのは、君たちの時間でだいたい三十五年ぶりかな。こうやってみんなが一同に集まっているということは、やっと機が熟した、決心がついたってことだよね」


 三十五年、と聞いて五人はざわめいた。奈美恵は四十九才になっていた。すずと美紀は一足先に五十の大台に乗っている。


「どうだい、ぼくの国を救いに来てくれる気になったかい。それとも、もう一度話をしようか」


 フレアは以前と同じように、滅亡の淵にある王国からスカウトに来ているとは思えない陽気な声で勧誘した。


「お願い、もう一度話をして」

 麗子が初めて口を開いた。


「では、説明しよう」


 フレアは宙に浮いたまま二本足で立ち上がるように体を伸ばし、人間の教師のように姿勢を正して話し始めた。



 それは何かのファンタジー小説やコミックの設定を聞いているような話で、実際に奈美恵が中学生の時に一度聞いた話でもある。


 フレアの王国は「赤の国」で、この世界と隣接した別の次元にある魔法世界である。


「赤の国」は、同じように別の次元に存在する魔法の国である「白の国」から次元を超えて侵略されている。


 既に王国の主だった魔法使いは敗れ去り、敗色濃厚である。そこで、他の世界の魔法戦士を探すべく、フレアがここへやって来た。


 この五人の戦士は強力な魔法の力を秘めていて、その力を引き出す杖を使えばきっと「白の国」を追い払うことができるだろう。


 この杖はこの世界では一本にしか見えないが、実は五本の杖がひとつに重なった姿だ。


 皆が揃ってこの杖に手を重ね、心を一つにすれば五人はそれぞれ自分の杖を手に入れることができる。そしてその杖の力を使えば、「赤の国」へと旅立てるのだ。



「もう、来るのが三十年遅いわよ」


「こんなおばちゃんたちをスカウトしても、私たちに戦う力なんてないわ」


「できれば助けてあげたいんだけどねぇ」


「ほんと、もう十分この世界も満喫したからねぇ。そろそろ新しい場所へ行ってみたいのだけれど」


「そうそう、この世に未練はないけれど、私ら年寄りに何ができるのかしらねぇ」


 忘れていたとはいえ昔一度聞いた話でもあり、現実感の希薄な物語の中の出来事のように感じていた。


「それはご心配なく。ぼくの国があるのはこことは次元の違う世界。君たちの肉体の年齢など、何の意味もない。それに、君たちには三十五年が過ぎているけれど、僕にはすぐ昨日と同じなのさ。たまたま、君たち五人が再び揃うのにこれだけの年月が過ぎていただけで、僕はただ単にあれ以来もう一度君たちが五人揃うこの場所へとやって来ただけなのだから」


「じゃあ本当に私たちでもあなたの役に立てるの?」


「もちろんそうさ。だからぼくは君たちを誘いに来た。君たちがぼくらの国へ来れば今の肉体など何の意味もない。ほら、わかるかい。ぼくの言葉が。ぼくは音声によって君たちの言葉を話しているわけじゃないだろ」


 確かに、言われてみればフレアの言葉は耳から入ってくる音ではなかった。直接心の中にその言葉が届いている。肉体を通じた物理的な音声とは全く違うものだ。


「だから、君たちも今の肉体から離れて、その心だけがぼくらの国へ来ることになるのさ。残念ながら、君たちの肉体は消えてしまうのだけれど」



「私はすぐにでも行かれるわ」


 美紀は簡単に言ったので、四人が振り返った。


「私にはもう、この店しかないから。別に、引き留めてくれる人がいないわけじゃないけど、私がいなくてもこの店は回るし、誰も困らない。それなら私を必要としてくれるあなたのところへ行くわ」


 美紀は高校を卒業後地元企業に就職し、二年後には社長の息子と大恋愛の末に結婚した。


 しかし子宝に恵まれず夫の両親との間に大きな亀裂が入り、五年後に離婚した。美紀自身は、夫と別れたいとは微塵も思っていなかった。


 子供を産めなかった自分が責められ、それを庇ってくれた夫もまた親類からひどく責められて、二人は周囲の圧力に負けて離婚という結果になった。だが、美紀は今でも別れた夫のことが忘れられないで、独身を貫いている。


 離婚後は一人で生きるために水商売に入り、三十八才でこの店「宮」を開店した。


 店は繁盛して雇っている若い子も一生懸命働いてくれる。地元の常連客も多く、企業の接待にも使われて順風満帆、文句のつけようがない。


 言い寄る男も多いが、特定の男と付き合う気はなく、ましてや再婚など考えてもいない。店で働くスタッフも優秀で、自分が店を譲ってもしっかり今の店を守ってくれるであろう。


 そう考えれば、これ以上ここにいる理由は何もないのだった。日々の暮らしには何の不満もなく、朗らかで楽しい生活を送っていたつもりだった。


 しかし自分でも驚いたことに、この暮らしを捨て去ろうと考えても、何の未練も感じないのだった。


 それどころか、老いた肉体を捨てて新しい世界に飛び込む期待に胸が躍る。こんな気持ちは何年振りだろうか。



「私も行きたい」

 すぐに同意したのは、綾だった。


「あんた、病院はどうすんのよ」

 麗子が、悲鳴に似た驚愕の声を上げた。


 綾は名古屋の医科大学を卒業後、同じ大学の同級生と結婚した。その後二人で岐阜へ戻り、以来ずっと実家の病院で働いている。病院の経営は大変だったが、


 一男一女をもうけて、無事に二人とも医学部へ進学させた。これまで両親と夫と必死になって取り組んできた病院の経営改革も功を奏し、田舎の診療所から最新鋭の機器を揃えた地域病院へと成長させることができた。


 子供たちもこれからしっかり学んで跡を継いでくれそうで、安心すると急に体の具合が悪くなり、寝たり起きたりの暮らしが一年ほど続いている。


 最近は体の調子も戻ってきたが、更年期障害の不定愁訴は今も続く。燃え尽き症候群だと、自分でもわかっていた。


 長い間母親業と病院の経営に振り回されていたが、いざ自分が寝込んでみると、夫と病院のスタッフとで盤石の態勢が構築されていて、何事もなく、というより自分がいない方がかえってスムーズに病院経営が動いているように見える。


 それを目の当たりにして、既に自分の出番が終わったように感じていた。母親として、経営者として、そして医師としても、今の自分にはこの町でできることがもう何もないような気がする。


 皮肉にも、この町に残った美紀と自分の二人が、今になって別の世界へ逃げ出そうとしている。


 子供のころから疑問にも思わずまっすぐに歩んできた自分の人生が、こんな結果になるとは夢にも思わなかった。自分が辿る道の先には、もっと穏やかで充実した世界があると信じていたのに。


 それが間違っていたのなら、もしも、もっと早く別の人生を選択していたのなら、果たして今自分はここにいただろうか。



 その時、麗子がフレアを睨むように見据えて、彼女らしい冷静な声で呟くように言った。


「あなたは私たちに国を救えと言う。きっとそこで私たちは何かと戦うことになるのでしょう。だけど、私たちは、あなたの世界を何も知らない。そこには戦いの他に何があるっていうの?」


 他の四人も、息を呑んだ。確かに、何も知らない、行ったこともない場所だ。


「君たちにぼくの国を見せてあげたいが、それはできない。君たちを連れて行くことは、今の肉体を捨てるということだ。二度とここへは戻れない。その覚悟で来てほしいと言っている。僕らの世界には何でもある。目を閉じて、思い浮かべてほしい。心の中で自分の理想とする世界、自分の行きたい世界を描いてみるといい。それが実際に、現実になるのが僕らの世界だ。思う力と魔法の力、これが僕らの世界の現実を作る法則だ。力のない物は自分自身をそこに存在させるだけで精いっぱいだ。だが力のあるものは、自分自身だけでなくその周囲の世界を自在に作り、思い通りに操ることができる。だけど、勘違いしないでほしい。強い者が思いのままに支配する場所ではない。僕らの世界では、君たちの用いる言語よりもはるかに共感力の高いコミュニケーション手段がある。だからそこでは皆が慈しみあい楽しく快適に暮らせる世界を皆の力で作ることができる。強い者も弱い者も等しく暮らせる世界を作るのだ」


 五人は目を閉じたままフレアの話を聞いた。






  

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