魔法の杖 5



 その年、夏休みに家族揃って名古屋へ滞在した。


 奈美恵は新幹線で行くものとばかり思っていたのだが、夫は車で行くと言った。買ったばかりの新車に乗りたい気持ちもわかるので反対もしなかったが、東名高速の渋滞を考えると憂鬱であった。


 行きは早朝に出たので大きな渋滞にも合わず、新しい車は静かでスポーティで快適だった。


 伊勢志摩をドライブして、名古屋のホテルへ早めにチェックインした。


 二日目は奈美恵が二日酔いで苦しんだものの、プールや遊園地で遊んで子供たちも満足そうだった。三日目は名古屋市内の観光に費やして、土産物を買ったり名古屋名物を食べたりして楽しんだ。


 道さえ空いていれば、東京まではすぐである。


 午後遅くに帰宅の途に就いたのだが、それからが最悪だった。


 渋滞に捕まりノロノロ運転の挙句、結局事故により東名が閉鎖されて下道に出た。国道の大渋滞を嫌って山道へ逃げ込み、途中で見つけた道の駅で時間をつぶした。結局再び走り出したのはもう夜遅い時間になっていた。



 東名の事故は解消したが車線規制による渋滞は続いていたので、そのまま山間の道を走ったのが裏目に出た。


 深夜の空いている道を快適に走っていた時、前方に十数台の車とバイクが停止しているのが見えた。


 近付くとそれは都内ではほぼ見かけなくなった、暴走族の集団であった。


 自分の前を走っていた車が何かトラブルに巻き込まれたようで、若いカップルが車から引きずり出されて取り囲まれていた。


 ゆっくり走りながら見ていると、一部の男たちが気付いて車の前に出た。


 停まった車のボディを蹴る男たちに無理やりドアを開けられて、夫は胸ぐらを掴まれた。


 携帯電話を出せと凄まれて、夫と奈美恵の携帯を受け取ると目の前で踏みつぶされた。


 警察を呼んだりするんじゃねえぞ、と凄まれて夫は解放され、男たちは早く行けと、もう一度車を力いっぱいに蹴りとばした。



 何もできずに恐怖で固まったまま、夫は車を出した。


 後部座席で眠っていた子供が一度目を覚ましたが、何事もなかったように再び眠ってしまった。


 そのまま無言で夫は車を走らせ、家に帰っても何も言わなかった。


 翌日の新聞やテレビでもその夜の出来事は報道されていないので、あの若いカップルも無事に解放されたのではないかと思うが、奈美恵にも夫にも記憶から消し去りたい事件であった。


 新車のボディは見るも無残に何か所も凹んでいたが、夫はそれを修理せずに売却し、代わりに四角い箱型の不格好な車を買った。車好きだった夫が最も毛嫌いしていたタイプの実用車だった。


 映画のスクリーンの中では、極限状況に巻き込まれた主人公は困難に真っ直ぐ立ち向かい、人々を助け、時には自分が犠牲になって亡くなってしまう。


 しかし、どんなに立派な人間でも死んでしまえばそれまでだ。


 自分だけが助かろうと醜い姿を晒して怯え、逃げまどい、醜態を晒してでも生き延びた凡人は、再び自分の残りの人生を歩むことができる。そして、その後の人生で失った何かを取り戻すチャンスも与えられる。


 生き残った幸運を自分の能力と勘違いして何も変わらず享楽的に生き続ける者もいるだろう。


 一方で、自分を恥じ、懺悔の気持ちが消えない人もいる。


 深い後悔と自己嫌悪の中で勇気を持って生き直そう、一生戦おうと決意する。


 しかし戦い続けることは困難を極め、過ちは繰り返すものだ。容易にその傷は消えるものではない。そんな時に、人は宗教に頼るのかもしれない。



 それ以来、元々無口だった奈美恵の夫は益々口が重くなり、宗教に縋ることもなくただひたすら仕事に打ち込むようになった。


 それから既に十年以上が経過している。奈美恵はあの日の記憶を必死で消し去ろうとしてきたが、今でも時折頭の隅に、あの日自分たちが見捨てた若い男女の怯えた顔が浮かぶ。


 奈美恵はこの十年の間、自分が失ったものを取り戻すチャンスをずっと待っていた。今度こそ、戦うのだ。誰のためでもない、自分自身のために。



「私も行く。だけど、それは今日じゃない。家族の前から姿を消す以上、それなりの覚悟と準備が必要だから。例えば……一か月後かな。それまでに自分の人生の全てに決着をつけて、またここに集まるっていうのはどう?」


「そうだね。でも、それまでに一人でも脱落すればこの話は終わりだから。全てを捨ててここに集まった挙句にやっぱりダメだったので帰りますとは言えないだろ」


 麗子は冷静に、不安に思う部分を指摘した。


「確かに、一か月は長いな」

 綾も同様に不安を感じている。


「一か月後に絶対来ると誓うよ」

「そうだ。誓う」

「私も必ず来る」


 他の三人が、それを否定するが、それで不安が消えるわけではなかった。


「よし、じゃあ誓約書を作るぞ」

 綾がそう提案した。



「約束を破った奴は、どこまでも追いかけて無理やりにでも連れて行くぞ」

 美紀はかなり物騒な言い方をするが、それには及ばないとフレアが笑う。


「大丈夫。ぼくには君たちがどこに隠れようと、その居場所がわかるから」


 それを聞いて、綾が新しい疑問を提示した。

「フレア、あんたは一か月の間どうするのさ」


「ぼくもまたここへ来るよ」


「でも、五人集まらないとあんたを呼び出すことができないのでは?」


「関係ないよ。その杖さえあれば、僕はいつでもどこでもそこに現れることができる。ただそこに五人が集まった時に来ないと意味がないから、来ないだけさ」


「それなら一か月後に私たち全員が集まるかどうかも知っているんじゃないのか?」


「いや、君たちの時間は不安定に揺れ動いていて、不確定なものなのさ」


「本当に?」

「怪しいな・・・」

 綾が畳み掛けるように質問を放って首を傾げる。


「ひょっとして奈美恵はこうなることを知っていたんじゃないのか?」

 綾の言葉を、奈美恵は意外と冷静に受け止めた。


「どうしてそんなことを言うの?」

 綾は当然というように頷いて、奈美恵の顔を真っ直ぐ見る。



「奈美恵、本当にフレアとはあれから会っていないのか?」そしてもう一度奈美恵とフレアの二人を交互に見てから言った。


「フレアはこの杖のあるところにしか現れることができない。だとすると杖を持っていた奈美恵にそれを捨てられてしまったら、全て終わりだ。だからフレアはきっと、杖を持っていた奈美恵のところに度々現れては、説得をしていたのに違いない。そして奈美恵は五人の現況を時々確認して、今がまさにそのタイミングだと感じて他の四人をここに集めた。違うか?」


 さすがに奈美恵も動揺していた。


「これは奈美恵とフレアが仕込んだことなのか。いや、ひょっとしたら美紀や麗子も一枚噛んでいるのかも・・・」


 そう言ってから、すずが美紀をちらりと見る。

「私は知らないわよ」美紀が不満そうに口を尖らせた。


「私も関係ないわ」麗子も即座に否定する。


 二人が否定すると、奈美恵がため息をつき笑顔を見せた。



「さすがに、綾は騙せないわね。そうよ、その通り。私とフレアが仕組んだの。美紀も麗子も関係ないわ。私はあれからずっと、フレアと話していたの。さすがにみんなが別々に家庭を築いたりお店を始めたりしたものだから、きっと年老いて亡くなる直前まで待たなければ駄目かもしれないと思っていた。でも、意外と早くこの時が来てこちらも驚いているわ」


 ついに奈美恵が認めたので、逆に綾の顔がゆるんだ。


「やっぱりそうか。何しろ一か月後に杖を持った奈美恵がここへ来なければ、全てはお終いだからね。いくらフレアが呑気でも、最低そこだけはケアしておくだろうと思ったのさ」


 実際、奈美恵がフレアと話をしたのは十年前のあの事件以降であった。


 夢中で暮らしていた奈美恵が自分の人生にふと疑問を感じた瞬間を捉えて、フレアは現れた。それは偶然とは思えない。


 共感力とフレアは呼ぶが、その力が自分たち五人にも備わっているのだという。


 フレアは五人の近くまで来て、奈美恵に話したことを君たちにもう一度話そうか、と前置きをしてからあちらの世界についての説明を淡々と始めた。


 四人の矢継ぎ早の質問に丁寧に答えながら、フレアの口調は熱を帯びた。



「で、どうなの。止める?」奈美恵が頃合いを見て、微笑んだまま綾の顔を覗き込む。


「まさか」


「そうね。別に奈美恵に一杯食わされたとは思っていないよ。そんなことはどうでもいい。逆に、お礼を言わないと」


「そうよ、ありがとう奈美恵。それに、奈美恵が逃げ出す心配がないのがはっきりして、かえって安心」


「そうだね。決まりだ。誘ってくれて私も嬉しいよ」


 皆が口々に変わらぬ決心を告げると、奈美恵が大きく息を吐いた。


「良かった。私はもう何年も前からこの日を夢見ていたのよ」


「そうか。期待に応えられてうれしいよ」綾がぶっきらぼうに言う。


「じゃあ乾杯するか」美紀が立ち上がり、新しいグラスを持ってきた。


「そうだな。もう誓約書なんぞ不要だろう」


 そして盛大に乾杯をして、その夜は賑やかに飲み明かした。



 ランニングを終えた奈美恵が自宅の前に差し掛かると、住宅街の道の向こうに西の空が見えた。


 広い青空の下に雲はなく、澄んだ秋の空気が菫色に輝いている。いよいよ今日、この家を出るのだ。既に離婚届を出して、自分は一人になった。


 決して夫が嫌いになったわけではない。二人の子供と別れるのも辛い。できることなら孫の顔だって見たかった。


 しかし、長く話せば別れが辛いだけだ。未練の影を残していくわけにはいかぬ。努めて明るく静かに去るのだ。


 これから少しの間一人で旅をして、美紀の店へ向かうことにする。最後の数日は五人で旅することになるだろう。


 これからずっと一緒にいることになる五人である。


 何もその前に集まることもなかろうとも思うが、五人で集まり一緒に国内旅行をする、それがまた楽しみで、胸が躍る。それまでに一人静かに物思う時間も、今日からはたっぷりとある。







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シリーズ 幻想酒場漂流記 短編集 アカホシマルオ @yurinchi

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