幻想酒場漂流記 第十夜 魔法の杖
魔法の杖 1
奈美恵は朝のランニングを終えて土手の上の歩道から降りると、クールダウンのため大通りを大股でゆっくりと歩いていた。
朝日の柔らかなピンク色が、軒を連ねる木造住宅の瓦屋根を明るく染めている。
晩秋の日差しは澄んだ空気を貫いて、建物の白い外壁にくっきりと境界を作っていた。
朝日の差し始めた家の二階ではちょうど暖かな太陽が昇ったところだが、奈美恵の足元に広がる黒いアスファルトは、まだ夜半の冷気をたっぷりとす吸い込んだままそこに残している。
ランニングシューズの薄い靴底を通して冷気の凍える触手が足裏から這い上ろうとしているのを感じて、奈美恵は少し足を速めた。
汗を拭きながら自宅へ向かう狭い路地へ足を踏み入れると、トーストを焼く香ばしい匂いが濃く漂っている。もう、多くの家が朝食の支度を始める時間になっていた。
柔らかなホテルブレッドが評判の老舗ベーカリーが近所にあるので、この町の住人は昔からパンが大好きだった。近頃は新しい店も次々と開店して、新たな賑わいを呼んでいる。
朝食時ともなると、あちこちの家から小麦の焦げる煙が外へ漏れ出して町内を漂う。この界隈に暮らす人々は長いこと、この朝の匂いとともに暮らしてきた。
奈美恵は息を深く吸って、おそらくこれが最後になるであろうその香りを、体の奥深くに焼き付けようとした。
山の紅葉が盛りを迎えるころに中学校の同窓会があり、奈美恵は岐阜県にある生まれ故郷の町を訪れた。
中学二年生の終業式を終えて東京へ引っ越すまでの多感な時期を過ごしたこの町が、奈美恵は大好きだった。元生徒会長で同窓会の世話役の一人でもある麗子が、卒業生でもない奈美恵に声をかけてくれたのも嬉しかった。
創立百年を迎えた中学校の記念式典に参加した後、当時のクラスメイトの五人が地元のバーに集まった。
重厚な木の扉を開けて一歩店の中に入ると、広くはないがセンスの良い上品な内装に包まれる。高級感に圧倒されることなく安心して家具に抱擁されるこの店の雰囲気は、店の主人の人柄がよく表れていると奈美恵は思う。
この店は奈美恵の同級生だった美紀の経営する店である。
落ち着いた色調でまとめられた調度品は美しい木目が照明の黄金の光に映えて、日本と西洋の古民家の持つ歴史の重厚さと懐かしさを併せ持っていた。今夜の店内は貸し切りで、女五人が低いテーブルを囲んで腰を下ろした。
十年以上も会っていない顔もいるが、最近東京で出会った者もいる。麗子とは先日電話で長話をしたばかりだ。五人は中学二年生の時のクラスメイトで、特に仲の良いグループを形成していた。
あれだけ毎日学校で濃厚な時間を共有していたのだが、卒業以来五人全員が揃うのはこれが初めてだった。
美紀の手料理と出前の寿司を並べてビールのグラスを打ち鳴らすと、自ずと中学生のころの思い出話に花が咲く。
生徒会の役員だった麗子は成績優秀な文学少女で、いつも分厚い小説を読んでいる感受性の豊かな少女だった。
開業医の娘であった綾とは試験の成績で学年トップを争うライバルで、綾の方は数学が得意でクールな理論派だった。
この店の主人である美紀は今でも美人ママとして有名だが、中学生のころから地元では名の知れた美少女で、ローカル誌のモデルに起用されるなどして、いつも眩しいオーラを放っていた。
もう一人のすずは当時短距離走の県内記録を持つ長身のスプリンターで、今でも無駄な肉のないスレンダーな美女である。
この派手な四人組を前にすると、今でも奈美恵は気おくれがして身が竦む。
奈美恵は彼女たちとは違う世界に生きる、何の取り柄もない平凡な中学生だった。
自分のように地味な少女がクラスのトップカーストに君臨する四人とどうやって仲良くなったのか、今でも不可解だ。
この四人と行動を共にするようになったのは、クラス替えになってすぐの中学二年の春、社会科見学のグループ分けの際に偶然この面々が集まったことに始まる。
博物館を見学して、グループごとにテーマを決めて授業で発表をすることになっていた。
初め、奈美恵は優秀な四人のメンバーに恵まれて、自分は何もしなくても大丈夫だろうと安心しきっていた。
しかしいざ発表のテーマを決めようと相談を始めると、四人の意見は全くかみ合わずに空転した。険悪な空気の中でグループ自体が空中分解しそうになった時に、奈美恵の隠れた才能が発揮された。
奈美恵は普段、共働きの両親に代わって幼い弟二人の面倒をよく見て、家事も任されていた。
また、母親が実家の食堂で働いていることもあって、多忙な時にはその手伝いをすることも多く、人当たりの良さや面倒見の良さ、細やかな気配りなどに加えて、家事や接客の技など、学校では目立たない能力に長けていた。
小さいころから誰かのために働くことが当たり前の暮らしをしていたので、他の同級生よりはずっと精神的に大人であったが、本人は自分に全く自信がなく、そんなことが学校で何かの役に立つなどとは夢にも思っていなかった。
しかしそれこそが個性の強い四人を結びつける扇の要となり、今に至るまで変わらない奈美恵の愛情豊かで穏やかな暮らしに繋がっているのだった。
一見大人の雰囲気を身に着けていた美紀も当時はまだまだ我儘な子供で、麗子と綾がテーマの決め方で議論を始めると、それ自体が癇に障り、うるさい黙れと喧嘩を売るような発言を始める。
すずはどうでもいいと無関心を決め込み、逆に麗子と綾からは無責任だと責められていた。
弟二人の喧嘩をなだめる要領で奈美恵が一人一人の意見を吸い上げ、柔らかに噛み砕いてもう一度皆に説明してから美点を大いに褒めた後に問題点を穏やかに指摘する。
四人の意見をじっくりと調整しながら自然に仲直りをさせて、いつの間にやら奈美恵を中心に花が開くように素晴らしい計画がまとまっていた。
それ以来五人は強い絆で結ばれて、行動を共にするようになった。
放課後はそれぞれに忙しい子供たちであったが、学校にいる限りは毎日同じ教室で学ぶことになる。
昼休みを含めて話をする時間はたっぷりとあったし、五人全員が揃わなくても放課後や休日に集まり、遊ぶこともできた。
試験の前には弟の面倒を見なければならない奈美恵の家に皆が集まり、手分けして家事の手伝いをしながら勉強会を開いたりしていた。
そのころ五人が揃って夢中になっていたのは、老舗の少女マンガ雑誌で人気を博していた魔法使いの少女が活躍するコミックで、ちょうどテレビアニメの放送が始まり日本中で爆発的なブームになっていた。
それまでにあった幼女向けのマンガと違い、シリアスな世界観と丁寧なキャラクター設定、中高生の少女の共感を集める豊かなストーリー性などが高く評価され、当時の少女たちの圧倒的な支持を受けた。
初めはすずが陸上部の友人から単行本を借りて読んでいるうちに熱中したのだが、五人で話をすると綾がその本を全巻持っていることがわかり、それから夢中で回し読みをした。
五人は即座に、圧倒的な画力で展開するスケールの大きな愛と勇気と友情の物語の渦へ呑みこまれていった。
五人で集まるとアニメの主人公の真似をして魔法の杖を振り回し、決めポーズを競った。やがて既存のストーリーだけでは満足できずに、五人で新しいキャラクターを考案したり、外伝のような原作にないストーリーをノートに書きためたりしながら楽しむようになった。それはまさしく、中二病の様相を呈していた。
思えば、五人がそうして同じ時を過ごしたのは中学二年生の一年間だけだった。
三年の始業式を迎える前に、奈美恵は父の仕事の都合で東京へ転校して、以後ずっと東京暮らしが続いている。
他の四人も三年になるとクラスも別れ、受験勉強やその他の様々な事情により以前のような親密な付き合いは失われた。
その後別々の高校へ進学するとめったに顔を合わせることもなくなり時は流れ、今に至っている。
美紀がカウンターの向こうから地元の吟醸酒を持ってきて、二度目の乾杯となった。
グラスをテーブルに戻した後、美紀がいたずらっぽい笑みを浮かべて、錆びたクッキーの空き缶をテーブルの上に置いた。
「これ覚えてる?」
麗子がにやにや笑っているので、知っているようだった。奈美恵を含めた他の三人は、首をかしげる。
「覚えてないの?」残念そうに美紀が三人の顔を順番に覗き込むが、すずと綾にはさっぱりわからないようだった。しかし、奈美恵にはひとつ心当たりがある。
「もしかして、タイムカプセル?」
奈美恵の遠慮がちな言葉に、綾とすずも反応した。
「あっ、そうかっ」綾が小さな声を上げて、すずと二人で得意げな美紀の目を見た。
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