真中食堂 2
サービスに貰ったお通しは、かぼちゃの煮つけであった。
醤油が濃いめでちょいと塩辛い下町風の煮物は、ビールのつまみにちょうどよかった。
微かに背徳感の味がする苦めのラガーを、かぼちゃの甘みが優しく包む。一口飲むたび心に溜まる苦みが染み出て、この店の甘みと混ざっているようだ。
やがてウインナー定食が運ばれて来た。
真っ白な皿に鮮やかな赤いウインナーが五本。キャベツの千切りとマカロニサラダが脇を固める。これも懐かしい昭和のメニューの生き残りだ。たまらない。
温かいご飯に飢えていたので、ビールをそっちのけで定食に夢中になる。
細かく刻み目の入った大きめの赤ウインナーは素朴な味で、白飯とよく合う。ウスターソースと和辛子が混ざれば、更に深い味わいだ。
パキパキのドイツ風粗びきウインナーなら肉汁たっぷりの華やかな味で、冷えたビールによく合うのだろう。
しかし昔ながらの赤ウインナーは控えめな大和撫子で、白いご飯にぴったりだった。
最後に思い出したようにビールを飲んで、赤ウインナーとキリンラガーとの相性の良さにも驚いた。
これはもったいないことをしたと思いながら壁の貼り紙を見れば、単品のおつまみメニューもある。慌てて、ウインナーだけを追加注文した。一品メニューは三百円也。安い。
私は定食の残りを平らげ、お茶代わりにビールを飲んで待つ。
おばちゃんがウインナーのお替わりを運んで来ると、それを待っていたように二人の老人が席を立って勘定を払い、店を後にした。店内には私一人だけが残される。
束の間の幸福感が過ぎ去ると、いつもの気だるさが現れる。
やや温くなった残りのビールをコップに注ぎ、もう一本頼もうかと迷っていると、おばちゃんが奥からバタバタと出て来て、照れたような笑みを浮かべながら私に両手を合わせる。
「ごめんなさい、お客さん。ちょっとだけ郵便局に行って来るんで、そこから飲み物出して勝手にやっててくださいね。表には休憩中の札を出しておくから、誰も来ないと思うので。ええ、その先の角ですから、すぐに戻りますよ。ほら、もうそろそろ窓口の閉まる時間なんで、本当にすみませんねぇ」
私も短い時間にビールを一本飲んで酔っていたので、無茶なこととも思わず気楽にはいはい、と言っておばちゃんの言う通り二本目のビールを取り出した。
おばちゃんは、じゃ、ちょっとだけね、と言ってデートに向かう女子学生のようにいそいそと出かけてしまった。
その過剰に楽しげな後姿を見送りながら、本当に郵便局へ行くのか怪しいものだな、とふと思った。しかし、既にもうどうにもならぬ。
店内に一人残った私だが、気にせず二皿目のウインナーをつまみに冷たいビールを飲む。
ゆっくりと流れる時間に身を任せ、何も考えずにぼんやりと過ごす。これが理想的な休日であろう。
しかし先ほど登場した気だるさは、そう簡単に消え去らない。
自分はどうしてこんなところで平日の昼間から一人で酒を飲んでいるのだろうか。
焦燥感、罪悪感、無力感、空虚感、次々と負の感情が渦巻く。変に生真面目に生きてきた習性なのか、こういう時間がどうも落ち着かない。
つまらない人間だとしみじみ思うが、これ以上どうにもならぬ。何も考えずに楽しもうとすればするほど、余計なことばかりが次々と頭に浮かび、やるせない気持ちになる。
私は頭の中の霞を振り払うように立て続けにビールをあおり、勢いづいて三本目の瓶を冷蔵庫から取り出した。
「そんな飲み方をしてたら体に毒だよ」
私一人だと思っていた店内に、若い女の声が響いた。
不意を突かれ、私は驚いてコップから口を離して周囲を見た。店内に人影はない。
入口が開いた気配はないので、勝手口から入ったのだろうか。それとも、元々奥に誰か残っていたのか。いったい何者だろう。
「あなた、仕事はどうしたの?」
母親のような言い方に怯んで、すぐに言葉が出ない。
「駄目よ、昼間のお酒はよく回るからね」
畳みかけるような言葉に負けて、「すみません」と呟き頭を下げる。
「今日はお休み?」
「ええ、休暇です」
「そう。普段見ない顔ね」
声のする方向を見るが、姿は見えない。厨房の中から話しているようだ。
「はい、初めてです」
職務質問のような流れに逆らえず体を固くしたまま尋問に答えるが、その声は最初に思ったよりも若々しい。
「こんな昼間から一人でやけ酒みたいなことをしてるなんて、みっともない。失恋でもしたの?」
職務質問というより、担任の教師に説教をされているような具合だ。それにしても、全く余計なお世話で、答えるのも面倒になる。
「いや、そういうことじゃなくて」
そう言って振り払おうとするが、必然的に過去の痛ましい事件を思い出させられて嫌な気分になる。
「じゃあどうして今日は、そんなに荒れてるのさ」
「……最近仕事がうまくいかなくて」
言い訳がましく呟くが、これは本当だ。
「若いんだから、何でもうまくいくと思う方がおかしいでしょ」
確かにその通り。今の職場に異動する前は、少しいい気になり過ぎていたのかもしれない。
「いや、今の仕事自体は問題なく上手にやってるけどね。ただ、ちっとも面白くなくて」
「また、生意気なことを言って。そう思ってるのは自分だけじゃないの?」
あまりに無遠慮な言葉に、私は少しムッとした。
「余計なお世話だ」
私はもう一度、声のする方を見る。相変わらず姿は見えないが、ここまでの話し方から察するに、実はずいぶん若い女の子なのではと感じていた。
「でも、仕事は面白くないんでしょ」
生意気な声は、私の言葉を無視して話を続ける。
「そりゃ、誰でもできるような簡単な仕事だし」
「どんな仕事なの?」
「貿易会社の、事務処理。そりゃ、英語で作る書類だから誰でもっていう仕事じゃないけど、派遣のお姉ちゃんでもできるような、単純な作業だから」
私は酔いに任せて少ししゃべりすぎていた。
「あなた、派遣のお姉ちゃんを馬鹿にしてるの?」
最初に聞いた険しい声に戻ったので、私は首を縮めた。
彼女の地雷を踏んだようだった。私の言い方も悪かったのだろう。パートや派遣のお仕事を経験していたのだろうか。答えに詰まり、手元のグラスに残ったビールを一口飲んで、瓶から注ぎ足した。
「あなた、毎日ちゃんと仕事をしてるの?」
更に、追い打ちをかけられる。
「もちろん」
「面白くないとか、簡単な仕事だからと言い訳して、手を抜いているだけじゃないの。真剣に取り組めば、もっと他にできることがあるんじゃない?」
もっと他にできること? そんなことは、考えたこともなかった。
「ただ決まった通りに書類を作るだけの作業なのに、他に何ができるっていうんだ……」
「そんなことは自分で考えなさい」
私は黙り込んだ。幸いそこで会話が一段落して、生意気な声の追い討ちも止んだ。そして、濁った頭で少しだけ考えてみた。
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