漆黒の侵入者
何者かの気配に気づいた時にはもう、それは目の前に迫っていた。長くて無骨な指。男性の手。驚きに目を見開くナディアに顔を近づけて、漆黒の侵入者は囁いた。
「お待たせ、花嫁さん」
「ひっ」
「おっと、叫ぶなよ?」
砂漠の乾いた夜風とともに、闇が窓から滑り込む。着地の際に風をはらんだマントがわずかに広がり、音もなく絨毯に広がった。
驚きおびえるナディアを一瞥し、花嫁のヴェールを宙に放って立ち上がったのは、見上げるほどに高い影。
頭を闇色のターバンで覆い、同色のマスクで顔を隠した怪しい侵入者。肌がうかがえるのはわずかに目元だけで、布陰に涼しげな切れ長の目がのぞく。瞳は血で染めたような真紅。蝋燭のわずかな光を吸って、ギラギラと輝いている。そのしなやかに引き締まった身体つきは、砂漠の夜を駆ける雄豹を思わせた。
「だれ……?」
「覚えていない、か? 自分で呼んでおいて、そりゃぁない」
「自分で? 私が? まさか」
「手紙を寄越したろう。俺が盗賊王ジャミールだ。証拠は──ほら、こいつだ」
男の声は伸びやかでよく通った。自信に溢れた若者特有の、張りがあって心地よい低音。
「涙で滲むこの文字、貴女のものだろう? しかと受け取ったぞ」
しかしその腰に下げられた使い込まれた半月刀を認めて、ナディアは彼から慎重に距離を取った。
世間を騒がす義賊の元締めが、こんな小娘の願いを叶えるために? その身を危険を冒してまで太守の館にまでやってきたことがにわかに信じられず、ナディアはたじろいだ。
「……本当に、盗賊王、ご本人でいらっしゃるの?」
一歩後ずさると、男は一歩こちらに歩みを進める。
「そう言っている」
本当だとしたら、なんという奇跡だろう。きっと自分はもうどうにもならないんだと、ついさっきまで己の悲運に浸りきっていたのに。
「この文字を見たとき、書いたのはきっととびきりに美しい女性だと思ってな。来て正解だった」
顔を覗きこまれる。とっさに後ずさろうとした体ごと抱きしめられる。息が止まるかと思った。
「……お綺麗になられた」
小さく呟かれた言葉は震えるナディアの耳には届かなかった。ただ青年の目尻に皺が寄って、真紅の瞳がとびきり優しく細められたのはわかった。たったそれだけのことで、ナディアは彼に釘付けになった。
盗賊王ジャミール。
不思議な魅力を持つ人だと思った。こんなにも心を惹きつける人間を見たことはない。両親とも違う。優秀な使用人たちとも、もちろん、あの太守なんかとは全然違う。──この人なら。
(本当に、ここから連れ出してくれるかもしれない)
今にも崩れ落ちそうだった心と身体が、急速に高揚していくのを感じる。
胸はドキドキとうるさくて、舞い上がったナディアはうっかり口を滑らせてしまった。
「噂に聞く盗賊王ジャミールが、こんなに若い方だったなんて」
「それは、俺が青くて未熟そうに見える、ということかい?」
瞳が妖しく光って、ナディアをとらえた。
「俺では貴女を救うに、力不足だと?」
さっきまで、あんなにも親しげだったのに。怒らせてしまったのだろうか。狼狽えたナディアは落ち着きなく視線を彷徨わせた。
夜風に揺れるろうそくの炎で二人の影が奇妙にぐにゃりと形を変え、壁を暴れまわっている。
「ち、違うわ。ただ、驚いただけ。本当に、ただ、それだけよ」
砂漠で獅子と対峙した時ですら、こんなにも恐怖しない。彼らは理知的で、素直で、時にわかりやすい獣だ。
だが目の前の男はどうだろう。
壁際まで追いやられたナディアは、青ざめた顔でなんとか立っていた。
(なんという人を、私は呼んでしまったの)
それでも、行く先が二択だとしたら答えは最初から決まっていた。
「ほ、報酬は、間違いなく支払います、前払いで。この花嫁の装飾品──エメラルドに、金に銀。全部あなたに差しあげます。私はひとつもいらないから。だからお願い。こ、殺さないで」
男のくぐもった声が空気を揺らした。どうやら笑ったようだった。
「もしかして貴女は、この刀を怖がっているのかな?」
「そう……お願い、乱暴しないで……」
「とんだ誤解だな。俺は女子供を襲うような真似など一度たりともしたことがない。しかし依頼の対価はいただこう。このヴェールも、装飾品も、民にとっては目が飛び出るほどの大金になるだろうよ。さすが悪徳名高い太守殿、あきれた美的感覚だなぁ」
ナディアは身を縮めた。どんなに高価な宝石で飾られていようと、初対面の男性にまじまじと全身を眺められれば恥ずかしくもなる。
「そんなに見ないで」
「美しい花嫁だなぁと」
「か、からかわないで!」
「からかってなどいない。けど、盗品があまりに美しいというのも考えものだな。俺のような未婚の男には目の毒だ」
ナディアは彼に背を向けた。好きでこんな格好をしているんじゃない。
「男のあなたにわかって? 好きでもない人のためにこんな目に合う、女の子の気持ちが……死にたいくらい屈辱的な、私の気持ちが」
これがただの政略結婚なら、どれだけマシだったか。
ナディアはこの若さを買われたのだ。金と権力と女を集めたがる強欲のケダモノに。
「今宵、哀れなひとりの花嫁が攫われる」
ナディアは顔をあげた。ジャミールは静かに続ける。
「そうなればお前の両親もまた、盗賊王の被害者だ。花嫁を用意できなかったと太守に責められることはなかろう。貴女が手紙を送ってきたのは、そういう筋書きのためだろう?」
──この先、待っているのは地獄の日々。どうか私を、ここから盗んではいただけないでしょうか。この世の果てまで、お供させて下さい。
「貴女の願い通り、攫いに来たぞ」
男は鷹揚に笑って、花嫁の手を取った。
「俺と来い、ナディア」
すべてを委ねたくなる不思議な力が、彼の言葉には宿っているようだった。
ナディアがふらりと一歩踏み出すより早く、ジャミールが彼女を引き寄せ胸の中に閉じ込める。
「捕まえた。このまま連れて帰るぞ、いいな? それとも貴女は、あの太守の正妻の座を狙っている?」
「そんなわけ……! それだけは、嫌です!」
話しているうちに、母屋へ繋がる回廊のざわめきに気づいた。顔を見合わせた二人は、表情を引き締め部屋の外の気配をうかがった。
横目で窓の外を確認したジャミールは身を屈めナディアの耳元で囁いた。
「太守が来る前にここを出る」
ナディアはごくりと唾を飲みこんだ。一方のジャミールは、まだ部屋の物色をする余裕があるらしい。ナディアの手を引きつつ、化粧台や衣装棚から高級品を取り出して眺めている。最後に真紅の瞳は、この部屋の中で一番豪奢に飾り付けられた花嫁を見つめた。
「この美姫だけでも大きな価値があるからなぁ。今回はほかの宝石は望むまい。さっさと行くとしよう──少々手荒でも、勘弁してくれよ? これは誘拐なんだからな」
ナディアが緊張した面持ちで小さく頷くのを見て、ジャミールは微笑んだ。
それと打って変わって低い声で、彼は入口扉に向かって声を張り上げた。
「極悪太守サルタンよ! 囚われの
ジャミールの雄叫びとほぼ同時に、けたたましく銅鑼の音が鳴る。迫る複数の足音。ナディアが案じていたとおり、すぐ近くに警備の人間がいたようだ。
「っし、飛ぶぞ」
ナディアは身を固くした。足が宙に浮くほど、ジャミールに強く抱きかかえられたからだ。
窓枠に足をかけた男は、彼女を抱いたまま躊躇いなく夜の帳へ身を投げた。恐怖を感じる暇さえなく、闇に吸い込まれていく二人の身体。息をするのも忘れ、ナディアは男の胸にしがみついた。
「ははっ、えらい、えらい。こういう時、大抵の女は気絶するか、鼓膜が破れるほどの金切り声で叫ぶものだが。さすが俺の……、こうでなくては」
難なく着地した彼は、そのままスピードを落とすことなく中庭の木を登り、しなやかで強靭な豹のように屋根から屋根へと跳躍した。
「賊だーッ! 庭から逃げるぞ、追えーッ!」
耳元で風がびゅうびゅう唸っている。闇と同化したジャミールは、一瞬も迷ったり止まったりすることなく視界の悪い夜を疾走し続けた。
「花嫁を抱えているぞ! 逃がすなっ、閉門、閉門急げッ」
「まったく、騒がしいなぁ」
「ひぇっ!? ど、どこだ!?」
「上さ」
半月刀を抜いた男が突然目の前に着地したものだから、警備兵らは泡を食って腰を抜かした。
「ひぃっ!? なんだお前っ、あの高さから飛んだのか!?」
「なぁ、ちぃと黙っててくれるか。極上の盗品を汚すのは忍びないんでね」
「裏門だ! 囲めっ」
「そうだ、ついでにサルタンによろしく伝えてくれ。女の趣味は良いようだが、やりすぎだ、と。あんたらもあんな雇主からはさっさと逃げた方がいいぞ。ほれ手始めにその門を開けるといい。太守の仕置きが恐ろしいなら、俺が一緒に出て行ってやろう」
「ふざけっ……盗賊風情が、何様で……!」
槍を構えた男が突進してくる。ジャミールは難なくそれを躱すと、体勢を崩した警備兵の頭上に半月刀を振り上げた。
「だめっ……!」
人が地面に倒れる音がする。ナディアは顔を覆って悲鳴を飲み込んだ。
「大丈夫。斬っちゃいないさ。言ったろう、殺しはしない主義ってな」
「は、……そう、でした……」
「すまないな、怖がらせてしまった」
館の門を突破してなおも走れば、宴の音がずいぶん遠くにきこえた。
これで自分は自由になれるのだろうか。実感がないままジャミールに抱えられ、いずこかに連れて行かれる。
男の肩越しに、数多の星明かりを宿す夜空が見える。
ようやく呼吸を思い出して、冷たい空気を肺いっぱいに満たした。次に考えるのは、両親のことだ。
(お父様、お母様……私はきっとこれで大丈夫だから……お二人も、どうかご無事で……さようなら、お元気で……)
小さな星々の瞬きが滲んで初めて、自分が泣いていることに気がついた。
「……手下たちをこの先で待たせている。それまでは、俺に捕まっているといい」
頭を押さえられて、ナディアは男の胸に額を押し当てた。大きな手に背を撫でられると不思議と心が落ち着いてくる。彼は幼子を守るのと同じようにナディアをマントできつく巻き、足早に暗闇を駆けた。
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