炎のジン2
──建国のジン。
それは、この大地を焼く熱風からうまれたといわれている。
発せられる怒気で、肌が焼けるようだった。顔を庇う腕がビリビリと痺れている。ジン除けの紋が必死に警告を送っているかのようだ。
『王に仕えし建国のジンよ。その力でもって人を害するならば……古の契約どおり、私にも貴方を罰することができます』
「ふん、忌々しい神官め……!」
『大人しくなさい、シムーン』
頭の中でファラーシャの声がしたと思ったら、熱気がいくらかひいた。おそるおそる目を開けると、視界に飛び込んできたのは発光する大きな鎖。ハーディンの手足に重く纏わり付いている。操っているのはファラーシャだ。
ハーディンの姿をしたジン──シムーンは、苦々しく顔を歪めて毒づいた。
「ふん、さすがはドゥーヤいちの呪術師か。しかしこのような術、貴様とて容易には使えまい。お前、さては準備をしておったな?」
『……』
「秘匿はそなたらの得意とするところだな、声なき神官よ。お前こそ、我に語るべきことがあるのではないか?」
(準備……? なんなの、どうなっているの、ファラーシャ)
ナディアの呼びかけを無視して、ファラーシャはシムーンの炎を抑えることに集中している。
ナディアは鎖で捕らえられたジンの足首を見やった。赤い血が流れ落ちている。握りしめた短剣にも血がこびりついている。人間の血の色。
建国のジンが、なぜハーディンの姿をしているのか──。
「ハーディンをどうしたの……? あのランプはどうしてカーラを吸い込んでしまったの? 本物の二人はどこ?」
「はは、自分で斬りつけておいてこの身体の心配とは! 人間というのはどいつもこいつも自分勝手で愚かな生き物よ」
手足を縛られてなお邪悪に嗤うシムーンがこちらを向く。その瞳は、蛇の如く金色に輝いている。彼が笑うたび、口の端から焔の端がちろちろと吐き出される。
ナディアはぎゅっと短剣を握りしめた。
「ふん、その剣で気が済むまで痛めつけるといい。たしかにこの身体はそなたらの知る男であるぞ」
「そんな……」
『乗っ取ったのですか』
「ちょうどよく砂漠を彷徨っておったのでな」
『その依代が、ドゥーランの次期頭領と知っていて?』
「偶然だとも。いや、巡り合わせかも知れぬな。まさかこの男の記憶に、我が妻の姿があろうとは予想だにしなかった。そして我が妻がこの男の妻に憑依しているとは……くく、運命というには、あまりに出来すぎていると思わんか? ん?』
『……何が言いたいのです』
「神官殿、我が妻まで利用して、この辺境でお主、何を企んでいた?」
炎のジンとファラーシャが睨み合っている隙に、ジャミールはひそやかに大広間を駆け抜けた。割れて隆起した床を疾走して、転がっていたランプを抱える。カーラを吸い込んだ、黄金のランプだ。
横目でそれを確認したファラーシャが、漆黒の外套を脱ぎ捨てて腕を広げた。
『私を揺さぶろうとしても無駄です。そなたにさらなる枷を与えます。砂漠を焼く熱風よ。怒りを鎮め我と対話せよ』
「はっ、調子にのるでないわ」
ファラーシャの赤銅色の髪が、シムーンから発せられる怒気ではらはらとなびく。
炎のジンは、両手足を術で拘束されていてもなお、こちらを見下すように嘲笑っている。
「俺を縛ることの出来るのは契約の王のみ。真名ごときで我を支配できると思うな」
『その”王”が、ここにおられる』
「なんだと?」
ファラーシャは離れたところにいるジャミールを見つめ、手を差し出した。
『ジャミール様』
ナディアは震える声で叫んだ。
「っ、ファラーシャが、『王はここにいる』と」
ジャミールは眉をひそめて立ち尽くしている。熱風のジンは苦々しく吐き捨てた。
「誰かと思えばその若造か? その男のどこが王……いや、髪が……お前、その瞳……アイツと同じ、紅い瞳、だと」
『感じるでしょう、あなたなら。正真正銘、主人の血を』
「…………」
ジンはジャミールを凝視したまま、じっと考えこんでいる。ファラーシャは冷静な声で語りかける。
『シムーンよ。なぜ、あなたが王宮から離れているのだ。そなたの王は、いかがなされた』
「白々しい!」
しばし沈黙していた炎が、またぶわりと湧き上がった。
「あいつの暗殺を企てたのは、お前たち神官だろうに!」
『まさか』
ファラーシャの表情が険しくなって、術の鎖がギリギリとジンを締め上げた。
『ドゥーヤ王は、崩御されたと?』
「生きてはいるさ。だがそれも時間の問題だ。老体を蝕む呪いと毒。見ていられぬわ。哀れな、骨と皮の老人に成り下がった契約者の姿など」
「──父が?」
立ち尽くすジャミールの呟きを、ナディアは聞き逃さなかった。炎のジンも目を見開いてジャミールを向く。
「そうさお前の父だ。あいつはあのまま死ぬのだろうよ。孤独にな」
「王子たちは? 子がいただろう、何人も」
「とうにみな死んだとも! 互いに争い、足を引っ張り合って。なぁ、末の王子よ。そなたの授かった予言どおりに、この国は滅びへ向かっているぞ」
「やめて」
ナディアは奥歯を噛んだ。ジャミールを蝕もうとする呪詛のような言葉を止めたかった。
「予言が何よ……!」
鋭い視線がギロリとこちらへ向く。
「小娘に何がわかる」
わからない。今だってナディアは何も出来なくて、ただ床に這いつくばって、大きな力の前に震えているだけだ。けど──ただジャミールのことが、気がかりで。
突然に親兄弟の最期を告げられた彼の驚きと衝撃は、いかほどだろう。だってあのジャミールが──いつだって余裕そうで、飄々としている彼が表情を無くして立ち尽くしている。
ジャミールは父を「なかった事」にはしていなかった。
わざわざ王宮に忍び込んだり、盗賊『王』を名乗ったりと、本当は父に──……唯一の肉親に、思うことがあったのかもしれない。
ジャミールのそばに行きたい。
迷子の子どもみたいな顔で立っている彼の、そばに。
そう思うのに、ファラーシャはナディアを制した。
動いてはならない。シムーンを完全に制するまでは危険だ、と。
ジンの身体から噴き出す炎は、興奮した蛇のようにうねり、ごうごうと石の床を暴れまわっている。術者の感情のままに、踊りくねっている。
「くくく、王が死ねば──この俺を宮殿に繋ぐ最後の鎖も切れる。番犬であるのも飽きたわ! ようやく、自由だ! 長かった! さあ妻を返せ、憎き人間よ!」
神殿を震わせていた炎が、立ち尽くすジャミールめがけて襲いかかる。
爆風は天井を壊し、轟音とともに瓦礫が降り注ぐ。あたりはもうもうと砂塵に覆われた。
「うそ、いやっ、ジャミール!?」
「平気だ!」
よかった、生きている。けれど何も見えない。髪に、肌に、パラパラと石つぶが落ちてくる。けむりの向こう側で、ジャミールが叫んでいる。
「ファラーシャ、引くぞ! このままではここが崩れる! 街に被害が出る前に皆を避難させなくては!」
ナディアはファラーシャの服の裾を強く掴んだ。
「どうするのっ、ジャミールに何て伝えれば」
ファラーシャはナディアを引き立たせ、半裸の身体に彼の外套を巻いた。
『ジャミール様に、ランプをこちらへ、と』
いわれたとおりにナディアが叫ぶと、金色の放物線がファラーシャの足元に落ちた。それを拾い上げて、ファラーシャはナディアを強く抱き寄せた。
「えっ? う、うそうそ、浮いて……!?」
『シムーン、お前の番を返してやる。しかし条件がある。その鎖を断ち切り、今より我に従え』
炎のジンはハーディンの顔のまま獰猛に歯をむいた。
「ほう。主人を鞍替えしろと? それがお前の本性か?」
『俺は繋ぎにすぎない』
「……ファラーシャ?」
ナディアは神秘的な光を帯びて輝く人をみつめた。今のファラーシャは、人間離れして美しい。赤銅色の髪も、同じ色の瞳も、ほのかに輝きながら揺れている。
ファラーシャはナディアを抱えたままゆるやかに上昇し、ジャミールのいる瓦礫の山へと浮遊した。
『王よ。我が王』
「ファラ、何のつもりだ」
宙に浮かぶファラーシャを、ジャミールは厳しい顔で睨みつけている。けれど光を帯びたフォラーシャは微笑んでいた。
この時を待っていた。そう聞こえてくる。
『参りましょう。王宮へ。あなたの真なる居場所へと、このファラーシャめが、ご案内いたします』
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