王宮の夜の逢瀬1
浴場で全身を洗われ香油を塗られ、繊細な透かし刺繍が施された夜着に着替える。自室に戻ったときはすっかり日が落ちてしまっていた。
充分に明るい月夜だけれど、それを差し置いてもこの
「何か弾きましょうか? ナディア様」
そわそわと落ち着かない主人を気遣って、ザハルが微笑んだ。
「あまぁい恋の唄がよろしいかしら。それともナディア様は勇ましい男たちの英雄譚の方がお好みかしらねえ」
絨毯の上に座ったザハルは、ウードをポロンとかき鳴らして歌いはじめた。都で流行りの、貴族の娘と奴隷戦士の身分違いの恋の唄なのだそうだ。
長椅子のクッションにもたれてくつろぐナディアの髪をカミリヤが編み、ライモーンが爪を磨き、サフランが杯に薔薇水を注ぐ。
(……本当に、お姫様になってしまったみたい……)
美しい侍女たちの至れり尽くせりに恐縮して、やっぱり何だか落ち着かないのだった。
「さぁ、仕上げはこちらのイヤリングね」
カミリヤは真紅のイヤリングを取り出して、丁寧な手つきでナディアの耳にはめる。手鏡を手渡されて覗き込むと、鏡の中の自分が難しい顔でにらみ返してきた。
「やだ、私、ずっとこんな顔をしてたのね……」
「無理もありませんわ。異国から後宮に来たばかりの姫様たちは、だいたい似たようなものでしてよ」
「ナディア様はむしろ堂々としていらっしゃる方ですわ」
「ほんと、ほんと。お妃教育を抜け出して木登りをなさる姫さまなんて、わたし初めて」
美しい侍女たちはくすくすと楽しそうに笑う。
「やめてよ、もう……」
頭を振ると、ちゃりちゃりと金の留め具が音を立てる。
翡翠色の髪飾りをつけた侍女サフランは、ほっそりした指でナディアの髪を耳にかけ直した。
「贈り物のイヤリングには意味があるんですよ」
宝石の輝きを眺めて彼女はうっとりと目を細めた。
「きっと王子はこう言いたいのでしょうね、いつもそばで貴女を守る、と」
「……そばでって……もう七日も会えていないのに……」
思わず漏れてしまった不満に、侍女たちが目を丸くして顔を見合わせた。
「まぁ。お寂しいのですね」
「素直でかわいい人」
サフランとライモーンが、ぎゅっとナディアを包んだ。
「私たちではいけませんの? 寂しさなんて感じないほど、たくさん楽しいことを知っていますのに」
「王子を愛していらっしゃるのですね。片時も離れたくないほど。まるで物語の恋人たちのようなお二人」
ナディアはかぶりを振った。
愛というのは……もっと優しいものだと思っていた。相手の全てを許してあげられるような、深く柔らかいもの。父や母から教わったそれと、いまナディアの内で暴れる気持ちはまったく異なるものだ。
こんなにも胸をさわがせて、ちくちく痛むものが、愛?
贈り物なんかよりも本人に会いたくて、独占したくて、たくさんわがままになってしまう、この気持ちが愛?
ザハルの歌は佳境だ。リュートの余韻に、女の切ない声が寄り添ってとけていく。
──たとえこの身が滅びようと、世界が失われようと、最後の日まであなたを愛す。共に旅立とう、砂漠を越えて暁の向こうへ。
「……愛って、なんなのかしら」
ナディアのつぶやきとともに、不意に暗闇が訪れる。
真っ暗闇の中でガタンと扉の開く音がして、飛び込んできたのは味方の宦官たち。武器を持ってナディアを守るように周囲に立った。
灯りという灯りが魔法のように勝手に消えてしまった。目が慣れてくると、近くにあるランプからは白い煙がたなびいているのがわかる。
「えっ、なっ、なに?」
「しっ、……喋らないで」
侍女たちはナディアをきつく抱きしめて息を殺している。
(やだ……なにか良くないことが起こっている?)
後宮の怖さをナディアはまだ知らない。けれどここがただの楽園でないことは、彼らの緊張を見ればわかる。
みな、衣擦れの音すら立てないよう沈黙している。何者かがそこにいるというように、窓の外の一点を睨みつけて。
極度の緊張のなか、中庭に続く窓辺にうつる人影がひとつ。
月明かりを背景にはためく闇色のマント。背の高いシルエットには見覚えがある。
(……まさか)
ナディアが立ち上がろうとするのを、カミリヤが引き止めた。
「いけません、動いては」
「──おいで、ナディア」
呼ばれたナディアは女たちの腕を振り切って駆け出した。
勢いのまま窓を開け放って男の影に飛びつく。受け止めた男はナディアを抱えてすぐさま窓枠を蹴り、中庭の木を飛んで、あっという間に列柱廊の屋根の上だ。
「ナディア様!」
侍女たちの焦ったような声が追いかけてくる。
「すまんが、しばし妻を借りるぞ」
二人は夜の空を飛ぶ。屋根から屋根へ。高く、王宮の尖塔の上へ。
月が眩しい。ナディアは男の肩に顔を埋めた。
「……七日も待ってた」
「すまん、すまん。なかなか抜け出せなくてなぁ」
夜風に舞うマント。顔のほとんどを隠すマスクとターバン。いつぞやのように黒づくめの盗賊王ジャミールは、真紅の瞳を細めて笑った。
「会いたかった、ナディア」
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