王宮の夜の逢瀬2
王宮の北側にある尖塔を2人は登った。
頭上には銀の星空と半分の月、遠く地平線のかなたまで広がる砂漠はしんと静まり返っている。ときおり強く吹く風から身を守るように、ジャミールはナディアをマントの下に包んだ。
「寒くはないか」
本物だ。わきあがる何かがナディアの目を熱くする。それが落ち着くまで、ナディアはしばらく彼によりかかったままでいた。
「……うん、大丈夫。ねえジャミール、どうしてこんなふうに来たの?」
「ん?」
見上げると、ジャミールの指がナディアの髪をすいた。風で乱れてしまったかもしれない。彼の前に立つ今の自分がいちばん綺麗でいられなかったことだけは、ほんの少しだけ残念だ。
「今夜は王子がお渡りになるって大騒ぎだったのに、まさかあなたがこんな方法で来るなんて、誰も思ってもなかったのよ」
「ははは、このイヤリングのせいか」
ジャミールは悪びれたふうもなく笑った。
「よく似合ってる。あなたには赤がよく映える」
「あ、ありがとう……とても高価そうで、緊張する」
「マジャラ宮では、宝石は通貨がわりなんだそうだ。身につけてもいいし、何かの助けになればいいと思って急いで用意させたんだが」
宝石が通貨になるなんて、王宮というのはやっぱり普通じゃない。
「通貨って、何を買うの?」
「侍女たちへの褒美や、ちょっとしたお願いごとの対価だな。知っているか? 妃の寝室への出入りは記録されている。つまり俺が正規の方法で貴女の寝室を訪れたとして、なにを話して、何時間ほどなにをしたか……それを記録する輩も部屋に入ってくるということで」
「そ、それは」
ナディアは頬を押さえて首を振った。
「監視役が常にいるってこと? そんなの、絶対に、嫌!」
「そういうときに、この石でもくれてやるといい。今夜は俺が、作法など無視して勝手に抜け出して来たが……ファラは今ごろめちゃくちゃ怒っているだろうな。まぁ、あいつがなんと言おうと知らん。俺だって怒ってるんだ」
「勝手に王宮に連れてきたから?」
「それもあるが」
ジャミールはムッと眉を寄せた。
「俺より先に貴女に会いに行くなど、許せん。貴女は俺の妻なのに」
そう言ってジャミールはナディアを強く抱いた。
雲の上にいるみたいに、ふわふわする。高鳴る胸が心地よい。二人きりだ。
少し背伸びをすると、ジャミールの頬に唇が届く。
彼は目を閉じてそれを受けて、今度はナディアの頬を両手で挟んで、口付けをし直した。
こうして触れ合えることがどんなにすばらしいことなのか、ナディアにもようやくわかった。胸が満たされて、自然と唇は微笑みのかたちをつくる。
柔らかく口づけを繰り返して、二人は離れた。
今このときだけは、不安や焦りに邪魔されたくない。
間近に見る夫に向かって、ナディアは微笑んでみせた。
「昼間のことね。ファラには、ちょっとだけ嫌みを言われただけよ。心配ないわ」
「どんな話を? あいつは俺に何も教えちゃくれないんだ」
「お告げで、正妃の候補はもう決めたって言ってた」
「はぁ。挑発のつもりか? 無駄なことを」
そう言うが、ジャミールの表情は冴えない。
きっと彼もわかっている。この王宮で二人らしくいることが、どんなに困難であるか。玉座の重責は、ナディアの悩みよりずっと苦しかろう。
だからこそ、ナディアからは言えない。嫉妬や不安がどれほど胸を締め付けようと、それは彼の妻として与えられた試練なのかもしれない、と。彼の顔を見て、そう、あきらめかけていた。
今、この瞬間まで。
「ナディア。ここを出よう」
え? と、ナディアは目を瞬いた。
「マジャラ宮から逃げよう。なに、二人ならできるさ」
「本当に? 本気で言ってる?」
「言ったろ、俺は王にはならない。俺のなすべきことはそれじゃない。貴女を狭い後宮に押し込めてまでやりたいことは、ここにない」
力強い声は、いつものジャミールだ。ナディアを引っ張って立たせると、彼は前を見据えた。
「俺にはこの世界の誰よりも、あなただけで良いんだ」
眼下に広がる寝静まった街と、銀の砂漠。それを振り払うようにマントを風に流して、ジャミールは言った。
彼はいつもそうだ。
いつだって笑って、困難を楽しんで、そして最後に成し遂げてしまう人──それが、盗賊王ジャミールなのだ。
うらやましくて、眩しくて、誇らしく、愛しい。
──これが、わたしの、夫だ。
「……私も、そうであればいいなと思っていたのよ。あなたがみんなの王様になるのが、私、嫌みたい……」
「誰に何と謗られようと、俺の願いはあなたと生きることだよ。昔から変わらない。この手に残るのは、あなただけでいい」
びゅうと吹きあげる風が髪をなぶる。この風に乗って飛んで行けたらいいのにと、その自由さをうらやましく思う。
「だが、兄上やカーラをなんとか助け出さなくてはな」
「私もそう思う。二人が居なくなって、神殿がめちゃくちゃになって、シストゥールのみんなだって困っているでしょうし。早く帰らないとって」
「実のところ、精霊たちについてはあなたが鍵だと思っている。今夜はそれを伝えにきたんだ」
ジャミールはそう言うと、懐から古めかしい綴じ本を取り出してナディアに差し出した。
「思い出さないか、お嬢様。古代語で書かれた呪術の教本だ。ファラの私物から拝借した」
「古代語……? 本当ね、読めないわ」
「いや。貴女は昔、これを読んでいたんだ」
「えっ? そんなわけないわ。初めて見たもの。まじないの本だなんて」
糸のような記号の連なりが何を示すのかさっぱり理解できない。
「読めないわ、私」
「いや、俺は覚えているぞ。だって、これを使って俺の呪いを解いたのはあなただ。お嬢様は覚えていなくても、俺はずっと覚えている。あなたが命の恩人だってことを」
「本当なの?」
使用人だった頃のジャミールを、ナディアはすっかり忘れてしまっている。
しかも、彼の呪いを解いただなんて。自分にそんな力があるとは到底思えない。ジャミールが嘘をつくはずがないけど、不可解だった。
(たしかに占いとか精霊とかが、好きだったような気はするけど……いつから興味を失くしたんだったかしら)
注意深く頁をめくり続ける。見覚えのある図柄に手をとめて、ナディアはジャミールを呼んだ。
「……ねえ、あなた。これ、ちょっと似ていない?」
「ん?」
「私の、手よ。ほら、カーラの描いてくれた
綴じ本をめくる自分の手と、本の図案をじっと見比べる。
「
「思い出せそうか」
ジャミールが勢いこんで尋ねる。ナディアはこめかみを押さえて呻いた。
「ううん、まだ。ねえ、話してみて。私、どんな風にあなたを救ったの?」
「それは」
ジャミールは珍しく言い淀んで、視線を落とした。
「ジャミール?」
「……いや、話そう。きっと話しても、あなたはもう俺を恐れないだろう。俺が呪われ子だったという話は、以前したな」
床に腰をおろした2人は、寄り添って本を眺めた。1枚1枚、過去を確かめるように、ジャミールはゆっくりと頁をめくる。
「俺の中にあった呪いは、俺を成人まで生きさせないようじわじわと蝕む種だった。弱い身体だったら十も生きられなかっただろうが、この通り、もともとは健康体でな。弱りながらもなんとかやっていた。だが、あの夏は呪いがついに俺を奈落へひきずり落とそうとしていた」
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