王宮の夜の逢瀬3
ジャミールは遠い過去を思い起こすような目をして、銀の夜空に浮かぶ明るい月を眺めている。
「あの夏は、寝ても覚めても誰かに呼ばれているようだった。声の主は、父ではないか、と。自分が死ぬときは父が迎えに来るのだと、なんとなくそう思っていたよ」
月光に照らされる端正な横顔からは、どんな感情も読み取れない。
ナディアはそっと彼の手に自分のそれを重ねた。
「待っていたのね、お父様のことを」
「どうかな。ただ恐かったのかもしれない。幼い俺にとって、死の恐怖は父の記憶と深く結びついていた」
他人事のように淡々と語る夫の手を握って、あたためるように胸に抱く。幼い頃のナディアもそのようにしたかもしれない。そうであればいいと思った。この少年を一人にしてはいけないと、内なる自分が叫んでいる。
手を握り返したジャミールの目元は微笑みのかたちをしている。この人は、いつもナディアのことをそんな目で見る。愛しいと、大切なのだと、瞳が語るのだ。
「夢うつつに額を冷やす手を感じた。体を吹き抜ける風があった。必死に俺を呼んでくれていた。それがナディアお嬢様であると俺にはすぐわかった。俺の中に満ちていた呪詛は取り除かれ、かわりにお嬢様が目の前にいた。よかった、ジャミール、と。……そこで終われば、幸せなお話だったのだが」
重く、苦しげなため息。月明かりに煌めく紅色の瞳に、影が落ちる。
「あなたはそのまま意識を失って、十日も目覚めず生死の境い目をさまよった。呪詛が貴女に返ってしまったのだろうと、旦那様はおっしゃっていたよ」
「そんなことが……?」
「目覚めたあなたは俺のことだけをすっかり忘れていた。一緒に庭で走り回ったことや、屋敷を抜け出して市場に買い物にでかけたことや、屋根の上で2人で星を眺めたことも、全部」
ジャミールは瞳を閉じて嘆息し、ナディアは唇を噛んだ。
「ごめんなさい、思い出せないわ……」
「いいさ、それでも俺の気持ちは変わらない。ずっとあなたが好きだったよ。再会したあなたは、やっぱりあなただったな。物語と秘密が大好きで、冒険に出たがりの、俺のナディアお嬢様だ」
ジャミールはナディアの冷えた肩を抱いて、胸元へと引き寄せた。
「ほら、……泣かせたくて話したんじゃないぞ」
「私、きっと昔もあなたのことが好きだったと思う。だって今、思い出せないことがこんなにも悔しいもの」
「さあ、どうだっただろうなぁ。当時の俺は、決して良い男とは言えなかったからなぁ」
「そんなことない。だって私、助けに行ったんでしょう? 嫌いな人のところへなんか、わざわざ行かない」
幼いナディアがどうだったとして、今の自分が思うことは一つだ。
「良かった。あなたが生きていてくれて」
「ありがとう。俺を助けてくれて」
父王に呪われ奴隷に落とされた王子は、
「あのとき俺を救ったように、力を貸してくれ、ナディア。きっとあなたならできる」
「あなたにしたみたいに、ハーディンとカーラから、
「あなたなら、きっと」
「……私が……」
できる、とは言いきれない。古めかしい本は読めないままだし、ジャミールの話を聞いてもどうやって呪いを解いたのか、ちっとも思い出せない。
──けど、この人と生きるために。
自分の力を信じてみたいと、ナディアは静かに決意をした。
「頑張ってみる。まかせて、私も何かしたい」
「頼む。シムーンについては、ファラにも相談するつもりだ。なるべく調べ尽くすが……何かわかれば、すぐ知らせる」
「ファラーシャに話してしまったら、私たちの逃亡計画がバレてしまうかもしれないわよ」
「わかっている。だが」
一度息を飲み込んで、ジャミールは力なくナディアにもたれかかった。慌てて肩を支える。
「ジャミール?」
「あなたの力を使えばジンを祓えるかもしれないが、代償に記憶がなくなるのだとしたら。どうすれば良いか、ずっと考えている。あなたのことなら何度だって攫ってみせるけど……、けど、俺を忘れたあなたが別の男に恋をしたら? 再会した俺を恐れたら? 耐えられないな。それでも今、あなたの力に頼る以外の策がない。事は急を要するし」
ぎゅっと手を握りつぶされる。子どもが縋るようなそれが苦しくて、ナディアはジャミールの頭を胸に抱えた。
「あなた、それがこわいのね」
「こわいさ」
ジャミールの腕がナディアの腰に回される。
「俺が言い出した事なのにな。……こわいんだ」
ナディアを包む腕は、行かないでくれいわんばかりに強く抱いて離れない。
ジャミールがこの世でもっとも恐れているもの。
ナディアを失うこと。それから──
「お父様のことは……?」
抱きしめたままささやくと、彼は小さく頷いた。
「ひと言。……ひと言だけ、言ってやりたいと思うのだ。俺はただのジャミールとして生きてやると。でないと、あの男の恐怖に俺は一生打ち勝てないままだ」
王の寝室は宮殿の最上階。この尖塔からもおおよその位置はわかる。
砂漠の大国ドゥーヤの王が、今まさに呪いと病に苦しんでいることを、この国の民たちは知っているのだろうか。
「……もう長くないと、ファラーシャは言っていたけど、本当……?」
「新しい解毒薬とファラの祈祷が効いているのか、ずっと眠っておられるよ。みな、その目が開くのを心待ちにしている。一部の人間をのぞいて、な。持ち堪えてくれると良いのだが」
「それなら、お父様のそばにいた方がいいわ。私は大丈夫。いつもあなたと共にいます。心が……戦うわ、寄り添って」
ナディアはジャミールを励まそうと、その背をさすった。
彼とならなんだってできるし、どこにだって行ける。親元を離れた心細さも、シストゥールで感じた疎外感も、今はもう遠い。
ふと、侍女の歌っていた歌詞が思い起こされる。
何もかも捨てて、あの海の向こうへ。──とある愛の歌。
「……ねえ、愛してるわ、ジャミール」
胸の内にある感情は、優しいものばかりではない。
でも、そのすべては彼から与えられ、彼のために返すものばかり。名前をつけるならやっぱり、愛なのだと思う。
言葉にならないから、かわりに自分から彼の頬に口付ける。こちらを向く紅い瞳にはまだ迷いがみえる。
夜明けまではまだ時間がある。もう少し、このまま。そう思っていると、ジャミールが吐息のようにささやいた。
「……離れがたいなぁ」
「離れないわ、ずっと」
それならばと、首に腕を回して今度は唇を重ねる。
ジャミールの腕はしっかりとナディアを抱いて、きつくお互いを抱きしめ合う。
離れても、一人でも、どこにいっても、自分たちが背を伸ばして立っていられるように。
「愛してる。大丈夫よ」
何度も繰り返しそう言って、ナディアはジャミールの頬を撫でた。
「……不安なら、もっと、たしかめてみて」
優しいキスの合間に、ジャミールはふっと笑って言った。
「もっと、か。いいのか。そんなことを言って」
目をあければ、探るように覗き込んでくる紅い瞳と視線が絡まる。
鼻先で遊ぶように小突き合って。逃げようとするナディアの後頭部に手を回して、ジャミールは深く口づけし直した。
ナディアは精一杯、彼を受け入れて同じくらいの熱を返そうとした。息苦しくてろくに返事もできないのに、この性急さを嬉しいとさえ思ってしまう。
「……今まで紳士でいられたことを褒めてもらわないといけないな。あなたのこととなれば俺は、どこまでも貪欲になれるんだから──」
彼と触れ合う肌の内側が、熱く疼いているのがわかる。身体は満たされないなにかを埋めようと必死に心臓を動かす。意識して息を吐かないとめまいがしそうだ。
「ジャミールは……その、したいってこと……?」
彼は微笑むのみだ。ナディアはごくんと唾を飲み込んだ。
「あ、あの……あのね、わ、私も……あなたが欲しい、みたい……」
「欲しい、って?」
「だ、だから!」
この疼きをどうしたらいいのかなんて、ナディアにはわからなかった。ただ素直になるしか、方法を知らない。
「……あ、あなたと、一緒。ここなら誰にも見られないし……ここで、いいから……」
ちらりとうかがうと、ジャミールは眉を寄せている。あまりに大胆すぎる誘いだったかもしれない。
けれど、もう後には引けない。つないだ手にぎゅっと力をこめる。
「もういちど言っておくけど、俺は紳士でいるつもりだったんだ」
「あなたはいつも紳士よ……私がわがままなんだわ」
「いや。ただただ可愛いだけさ。ああ、まったくかなわん! 今夜は本当に、あなたに完敗だな」
そっと押し倒された床は冷たくて、固い。けど、そんなことも気にならないくらいに、彼の口づけが熱い。
「……ありがとう。やさしくする」
「うん……」
そっと肌に触れる手は夜風に晒されたせいか、ひんやりと、かさついていた。
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