空飛ぶ絨毯2

『我らのランプを、どこか人の手の届かぬところへ運んでほしいのだ』

「人の手の、届かないところ……」


 言われて考えてみても、簡単に思い浮かびそうもない。

 なにせ今までのナディアときたら、オアシスの実家しか知らない箱入りだったのだから。ジャミールと再会してからは、運命に翻弄されるみたいに目まぐるしく環境が変わってしまったけど、もともとナディアの世界はちっぽけなものだった。


「そうね……それなら、火山とか、海の底とかかしら……?」

『なにっ、海はいかん。我が妻はまだしも、俺は水の中ではうまく動けんからな』

『あら、私だって火山では蒸発してしまいましてよ。ランプだって溶けてしまいます』

『う、うむ。そうだった』

「ジンってのは、そんなに万能でもないのだな」


 ファラーシャを介して話を聞いていたジャミールは、肩をすくめてそう言った。


「そんなに注文をつけるなら、自分で飛んで行ったらどうだ」


『それができれば苦労などなかった。我らは基本的にこのランプに縛られているし、新しい居場所は王宮から離れれば離れるほど良い。となるとその距離、いかにジンとはいえ日帰りでは難しい。それにな、500年もここに封じられていると、案外このせまいランプが心地よくてだな……。この中でないと、俺は眠れないのだ』

「ね、寝るのね、あなたたち」


 色々と聞きたいことはあるが、いま一番それが気になった。


『お前たち人間は感じぬかもしれんが、風とて、草木とて眠る。まぁそういうわけで、自由な人間の手など借りたいわけだ。それに五百年前ならまだしも、今は精霊がぴゅうと空を飛んでいれば目立つし騒ぎになるだろう?』

「たしかに」


 たじろぐナディアたちを横目に、精霊の夫婦は宙をゆらゆらと楽しそうだ。次はジンニーヤがナディアの前にふわりと降りてきた。透き通る水は、朝日にきらきらと輝いて綺麗だ。


『乙女、あなたは風の子です。あなたの伴侶もそう』

「風……?」

『風の子らは、生涯を一か所に留まってはいないでしょう。ああ、これは預言ではありませんよ。私がそう思うだけ』

「私たち、飽きっぽいってこと?」

『いいえ。でも、あなたたちはきっと、風のように世界をめぐる予感がする』

「世界を?」


 ナディアは目を瞬いた。


 世界。

 それはなんて途方もなく、漠然として広く、未知のものだろう。

 ナディアがその素晴らしく心躍る響きに浸っている一方で、ジャミールは身を乗り出して抗議した。


「おいおい、まさか俺たちに、世界を旅しながらお前たちにとって都合のいい場所を探せっていうのか? そりゃ、さすがにこき使い過ぎだろう。そもそもなぁ、俺たちは新婚なんだぞ。いい加減、さっさと家に帰らせてくれ。そしてはやく二人きりにしてくれ」

「ジャミールったら」


 顔を赤くして慌てるナディアを見て、水の精霊はぽこぽこと泡をたてた。笑ったのかもしれない。


『ええ、心得ております。実はね、もう目星はつけているの。あの街の、もっともはずれ。そこでいいわ』

「あの街? もしかして、シストゥールのこと?」

『そう。あそこは私たちにとって、ぴったりの場所よ』

「川と、火山があるわね」


 そういうこと、とジンニーヤは妖艶に水のからだをくねらせ、ランプの中に戻っていった。


『頼んだぞ、乙女』


 あとを追うように、シムーンも自身のランプに吸い込まれていく。残された三人は、ナディアの腕の中で輝くランプを見てため息をついた。


「なかなか面倒な土産だぞ、これは」

『まぁまぁ。何事もなく王宮から出ていかれるのですから、これくらいはしていただきませんと』


 ファラーシャは袖で口元を隠し、目を細めて微笑んだ。

 いつもの、意地悪な神官長ファラーシャが戻ってきた。ジャミールと語らっていたさっきまでの彼は、めずらしく感傷的に見えたのに。


(でも、これくらいがいいわ。……彼とも、笑ってさよならしたいもの)


 言い合っている男2人を微笑ましく眺めていると、腕の中でランプがガタガタと震えだす。


『大事なことを言い忘れておった』


 炎が再び顔を出した。


『この件、もちろん無償タダでとは言わんぞ、人間たち』

「なんだ? 秘蔵の財宝でもくれるのか?」

『違うわ! ナハルに似て強欲な小僧め。金などより、もっともっと素晴らしいものよ。久しく使っていなかった力だが、我が妻と一緒の今ならば作れよう。それっ』


 しゅーっと音をたてて、2つのランプから勢いよく蒸気が噴き出る。それが細く細く伸びると、艷めく青と赤の紡ぎ糸になった。二色の糸は縦と横に交差して、目を見張るナディアたちの前で、みるみるうちに一枚の織物が織りあがってゆく。


 火と水の精霊ジンの力の宿ったその紫色の織物は、驚くべきことに、いつまでもふわふわと宙を浮いたままでいる。


「な、なんだ!? これは」

『おお……! これはまさか、古文書で見た、初代ナハル王の空飛ぶ絨毯か!』


 ジャミールは目を輝かせ、ファラーシャも浮かぶ絨毯の周りをそわそわと行ったり来たりしている。ナディアは驚きっぱなしで、ランプを抱えたまま目を白黒させた。


『はっはっは! どうよどうよ、人間たち。懐かしいなぁ。ナハルとはよく、こいつで一緒に空を飛んだものだ。500年ぶりだが、うまくできたと思うぞ』

「こ、これに、乗るの……? 私たち? いまから?」


 絨毯に触れたジャミールは、感心したように唸った。


「手触りは、まるで上質な羊毛スーフのようだな……」


 腰くらいの高さに浮いた絨毯に、えいと飛び乗る。絨毯はジャミールの重さにもびくともせず、優雅に浮いたままである。


「すごいな! これは! さっきの言葉は取り消そう、やはり魔神ジンの力というのは尋常じゃない。おいで、ナディア。大丈夫だ」


 ランプを抱えたナディアは、こわごわ絨毯に近づいた。ジャミールに手を引いてもらって、おっかなびっくり乗り上げる。


「うわぁ……」


 見た目よりずっとずっと、安定感がある。動けば揺れる。けれどしっかりと下半身にまとわりつくようでもあって──


(駱駝のこぶみたいな……? ちょっとぶよぶよした、そんな座り心地……)


 これだけ厚手の織物であれば、2人の重さで破れたりなどはしないはずだ。けど……やっぱり、ちょっとだけこわい。

 こわいとおもうと余計に力が入ってしまうのか、うまく座っていられない。


「じゃ、ジャミール! 待って、私、ちょっとこれ、こわい!」

「落ちそうな気がする?」

「そう! なんだか、ずっとぐねぐね揺れてるんだもの。どこに座ったらいいのか、あん、やだもうお尻が沈んじゃう……!」

「なに、慣れれば乗馬と同じ要領さ。背を伸ばして座ってごらん。それでもこわいなら、俺につかまっておいで」


 ジャミールはナディアの腕をとると、自分の腹部にまわすよう言った。彼の背にぎゅっとしがみついていれば、たしかにそれほど揺れも、風も感じないかもしれない。

 どんな理由であれジャミールにひっついていられるのはうれしいことだ。今度は違う理由で、心臓がどくどくしている。


「うん……これなら、なんとか……」

「よしよし。で、これはどうやって動かすんだ? 俺の意志でどうにかなるのか?」

『風に乗るのよ』

「うーん? たぶん、こうだな」


 ジャミールはいとも簡単に絨毯を操ると、ゆっくりと進行方向へ向きを変えた。ちょうど日の出の方向──シストゥールにむかって高度をあげようと、ぐっと体に力が入る。


「あっ、待って!」


 今にも飛んで行ってしまいそうなジャミールを制して、ナディアは声をあげる。


「ファラーシャ!」


 さようならと、振り返るだけのつもりだった。けれどファラーシャの方が先に、ナディアの手を取った。


『奥方、これを』

「あれ? これ、イヤリング」


 握らされたのは、ジャミールからもらった紅玉ルビーのイヤリング。北の宮を出るときにラーイという女官にあげてしまったものだ。


「どうしてあなたが?」

『これからはジャミール様からの贈り物を、ほいほいと人にやらないよう気をつけることだな』

「そっ……それは、わかってる。あの時は、必死で」

『ええ。そうでしょう。ほら、つけてさしあげます』


 ファラーシャの指が耳に触れる。彼の手の内であたたまった紅玉ルビーが、ナディアの耳朶にしっくりおさまった。

 ファラーシャは神官服の両袖を合わせ、まるで王に拝謁するときのように深く頭を垂れた。


『この先、お二人が健やかに過ごされますよう。私はここで、祈っております』

「お前も元気でな。ファラ」


 ジャミールはファラーシャに向かって拳を突き出した。ファラーシャは一瞬面食らった顔をしたものの、おずおずと自分の拳を突き合わせた。ジャミールは満足そうに笑い、今度こそ絨毯は高度を上げる。


「っ、さよなら! ファラーシャ。元気でね!」


 ナディアは叫んだ。ファラーシャは、朝日に溶けてゆく2人を眩しそうに見上げている。


『ええ。……さようなら。俺の……』


 黄金色に染まる東の空を、大きな鳥が太陽に向かって飛んでゆく。

 2人の姿が見えなくなるまで、声なき男は、尖塔の上からずっとずっと眺めていた。

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