砂漠の夜明け
§
少年の部屋に忍び込んだのは、たしか10歳の誕生日を迎える月のことだった。
彼は、昔からよく病気をする少年だった。しかしあの時は様子が違った。
どんな高価な薬を与えても熱が下がらず、父が首都から呼んだ医者たちも首をひねるばかりだった。
「感染しては大変です。絶ッ対に近づいてはなりませんよ、お嬢様」
年上の侍女に強く言われ辛抱していたが、気が気でなかった。実は、彼はもう死んでいるのでは……。私が悲しむから、みんなが秘密にしているだけで、彼は、もう。
そう思ったら、いてもたってもいられず、一目たしかめたくなった。
父が仕事、母が来客の応対をしている隙に、ナディアは使用人たちの目をかいくぐって、住居からさらに離れた小さな
寝台が一つ隅にぽつんと置かれているだけの質素な部屋に、息を荒くした少年が天井を向いて寝転んでいる。
「……生きてる」
ひとまずホッとしたけれど、やはり全く良くなっているようには見えない。この状態でふた月もいたのだとしたら、このような場所で1人にされて、どれほど心細かっただろう。
寝台のかたわらに置かれた食器を見れば、食事を摂った跡がある。彼に生きる意志はあるのになぜ病が引かないのか……。そもそもこれは、病なのか。
「──あなた、誰かに呪われるようなことでもした?」
ナディアは少年のそばに膝をついた。玉のような汗を木綿布でふきとってやり、苦しげな顔を覗き込んだ。ナディアの気に入りの、ルビーの瞳はぎゅっと閉じられていて見ることができない。
「
ナディアはそう言うと、苦し気に呻く少年の手を取って、その手に護符を握らせた。
「……だからがんばって、ジャミール」
一ページ目は、祈りの言の葉。
二ページ目は、護符の描き方。
三ページ目は、祓いの言の葉。
四ページ目は、救いの――、
§
眠ってしまったらしいと気づいたのは、辺りが明るくなり始めたからだった。瞼を閉じていてもわかる、朝焼けの一閃。
「……私……」
喉がひりついて、声が出ない。
すかさず革袋を手渡されて、ナディアはそれを一気にあおいだ。
「はぁ……美味しい……ありがとう、貴方は?」
「俺はいい、少しは眠れたか?」
「はい。ごめんなさい、支えてくれていたのね」
「いや、良い時間だった。腕の中に貴女がいるというのはいいな」
ジャミールはマスクの下で微笑んだようだった。それと対照的に、アリラトは不機嫌そうに鼻を鳴らす。
(馬に、嫉妬されているのかしら……)
ジャミールは、ナディアに手綱を握らせると、その上から手を重ねてきた。手の甲をなぞられ、指の股にしっかりと男の手が絡む。驚いて手を引っ込めようとするも、手綱を離せば落馬しそうな速度で走り続けているので、ナディアにはどうすることもできない。
「危ないわ……!」
「大丈夫だ、もうわずかで到着する」
言われて顔を上げると、背後でまさに今、朝日が昇らんとしているところだった。薄紫のベールをかけたような空が一気に黄金に輝いて、静まりかえっていた世界が力強く息を吹き返す。
生まれたての太陽の紅い閃光を浴びて、ほのかに桃色づいた色合いだった山影が、しだいに輪郭をはっきりさせていく。麓まで近づくと、ごつごつした斜面に無数の洞穴が空いていることに気が付いた。
「あの洞窟は迷路になっていて、その先が我が街、シストゥールだ」
心得たように速度を落としはじめた馬たちは後方に一列に並び、洞穴の中へと進んだ。
洞窟は細く長く入り組んでいて、道幅も広くなったり狭くなったりといい加減なものだったが、それがまさしく外部からの侵入を防ぐにもってこいなのだとジャミールは自慢げに語った。
「外の人間がシストゥールに辿り着くのは、砂漠で蜃気楼を追うくらい難しいことだろうさ」
ジャミールの朗らかな声が、薄暗い洞窟に反響する。
「さぁ、出口だ」
迷いなく進むアリラトに乗ったナディアは、外界の白い眩しさに驚き目を瞑った。
やがて周囲の明るさに慣れてくると、睫毛や頬を撫でる風に促されるように、ゆるゆるとまぶたを開いて──、
「
ジャミールが腕を伸ばした先に広がる景色に、息を飲んだ。
夜明けの
淡い薄紫から水色へと変わりつつある西の空は澄み渡って雲ひとつなく、砂漠を越えたばかりの砂っぽい体が、早朝の清々しい風に清められていく。
「……──いい風……」
「お嬢様、ほら、こちらからご覧ください」
カーラに案内された石造りの四角い建物も珍しい。山の中腹にあって、崖下に半分ほどせり出している。急いで馬を下りたナディアは、くり抜かれた窓から見える景色を興味いっぱいに見渡した。
あたりにそびえる絶壁の、地層の縞模様がなんとも美しい。
はるか前方、大地と空を分けるくっきりとした地平線には、大火山アイム・ラクンが。その麓からナディアたちのいるアズィーム連山までは、起伏のある荒野が広がっている。
荒野といっても、ドゥーヤ近辺の焼き付くような砂漠とは大違いだ。ここには、緑が、──さまざまな色がある。
荒野の中央のあたり、山の斜面を覆うように灰褐色の建物が密集しているところが中心部だろうか。不思議なつくりの街だった。
四角い箱のような住居と住居を結ぶのは、削り出した石灰岩を積んだ階段。色とりどりの鮮やかな布で覆われたテントなどもあるが、路地に人はほとんどおらず、まだ市もたっていない。
ジャミールは街を見下ろすナディアの横に立って、砂除けのマスクを下ろした。
「ここら一帯はもともと
(ジャミールの家?)
下を覗いて、びっくりする。その敷地は遠目に見てもとても広い。街の中心部からは離れているが、それらと同じように灰褐色の四角い形をしていて、中央に庭らしきものもある。周囲にはいくらか草が生えていて、駱駝や羊やらが放し飼いにされているようだ。
(すごい豪邸……けどさすがに庭に金銀財宝が転がってたりは……しないわよね)
自分で考えた冗談が面白く思えたナディアはちょっとだけ気分を良くして、さらに身を乗り出した。
(思ってたより、素敵なところだわ……あの街を歩いてみたいな。階段だらけなんて、迷路みたいで面白い街!)
「さて、そろそろ降りるか。ここからは徒歩だ。もう少し頑張ってくれ」
馬のためには、崖沿いの急勾配の階段とは別の道があるらしい。アリラトとはここでお別れということだ。
「乗せてくれてありがとう、アリラト」
アリラトは注意深く耳をそばだてていたが、鬣を撫でるナディアの手を振り払うことはしなかった。つぶらな瞳がナディアを見、ジャミールを見て、馬丁役の手下とともにゆったりと洞窟の中に姿を消した。
他の仲間たちもそれぞれ、家の近くへと繋がる洞窟へと別れていった。1人、2人とジャミールが肩を叩いて見送っていき、最後にカーラだけが残った。
「私も一度、家に戻ります。
「カーラ、行ってしまうの」
よっぽど情けない声を出してしまったのだろう、カーラは馬上で優しく微笑んだ。
「後ほど、身の回りのお世話に伺いますから、それまでゆっくり旅の疲れを癒してくださいましね。ジャミ」
カーラは弟を鋭く睨みつけて、声を落として言った。
「ナディア様と2人っきりになっても、変なことはしないように」
「か、カーラ……!」
「何かあれば大声で叫んでくださいまし。隣近所からすぐ助けがやってくる手はずになっておりますわ。それでは、お嬢様、ジャミール、失礼しますわね」
凛とした人妻の後ろ姿を見送ってしまうと、残ったのはいよいよナディアとジャミールだけになってしまった。
とたんに、すぐそばにいる青年の方を見られなくなる。二人きり。あのオアシスの夜と同じように。
(さっきまで、どうやって話していたんだっけ)
ナディアは困って、もじもじと頭のヴェールを引っ張って赤らむ顔を隠した。
「ナディア」
ぎこちなく振り返ると、ジャミールが真紅の瞳を細めて、優しげに微笑んで手を広げていた。
「ナディア、手を。この階段は、うっかり足を滑らせると崖下まで一気に落ちてしまうから」
「それは……怖いわ」
「慣れればなんてことないのだがな。初めのうちは下を見ない方が良いかもしれん」
慣れない靴で、幅が狭く急勾配な階段を一歩ずつ降りていく。下から突き上げるような強風に体が傾き、慌ててジャミールにしがみついた。足元でパラパラと崩れた小石が、崖下に吸い込まれるように落下していく。
「こっ、ここはっ、人間の歩く場所じゃないわっ」
「はっはっは、言ったろう?」
ジャミールはとても愉快そうに笑い、恐怖でガチガチに固まるナディアを絶壁側に寄せた。
「やはり抱いていこう。万一でも貴女に怪我をさせるわけにはいかん」
「ご、ごめんなさい……貴方も疲れてるでしょう?」
「そうだな、一刻も早く屋敷に帰りたい。何せこんなに心踊る戦利品を手に入れたのは、初めてだ」
ナディア一人ぐらいなんともないというふうに、軽やかな足取りでジャミールは階段を下りいく。どんな風に鍛えたら、こんな力持ちになれるのだろう。
ナディアは風に遊ばれる髪やヴェールを押さえて、同じく風にはためくジャミールのターバンの端に手を伸ばした。
こんなに近くにあっても掴むことが難しいというのに、彼はこうして異国の地からナディアを攫ってきてしまった。
「……盗賊王ジャミールは、今までどんなものを盗んできたの?」
「何でも、さ。金や銀、宝石に、美術品。家畜に、食糧や水も。武器や農耕具、土地の利権書、ほかにも色々だ。ただ残念ながら、我が家には何もないぞ。人にやってしまった。輝く財宝の山を期待させていたなら、申し訳ない」
「そうじゃないわ。必ず盗み出すというのは本当なんだって、感心したのよ……でも貴方、きっと相手からはずいぶん恨まれてるんじゃないかしら……大丈夫なの?」
「まぁ、あの太守みたいな貴族からは大いにな。まっ、今さら他人の恨みなど気にならんさ。生きたいように生きるのみよ」
自信に溢れた言葉は、故郷を離れたナディアになんとも響いた。
(ここで……私の、生きたいように)
ナディアはそれ以上何もいうのをやめて、大人しくジャミールにしがみついていた。
§
ジャミールの屋敷は広く、珍しい造りをしていた。
ドゥーヤらしい焼きレンガの家とも、純粋な遊牧民のテントとも違い、白っぽい石でできていて、部屋と部屋の区切りは美しい織物のカーテン。
屋敷の最奥、突き当たりの部屋がジャミールの私室であるらしかった。ここだけは壁に開き扉がついていて、ジャミールは無言のままそれに手をかけた。
部屋の中央に、天蓋つきの大きな寝台と長椅子、床には植物柄の厚い絨毯が敷き詰められている。その上に無造作に置かれた房飾りのついた大きなクッション。崩れた羊皮紙の山と、オイルランプ。なんとなくほっとする雰囲気だ。ドゥーヤの、ナディアの屋敷に家具やつくりが似ているからかもしれない。
「あの……ほかに、人は、いないの?」
屋敷に入ってから誰にもすれ違ったりしていない。使用人の出迎えなどもなかったし、侍女もいないようだ。
「ん? 料理人と掃除夫と洗濯女は雇っているぞ。俺は留守にすることが多いから、必要な時だけな」
(じゃあ今は、誰もいないの!?)
そんな中、うっかり男性の寝室に入ってしまったことに気づいて、ナディアは慌てた。
「わ、私は、どうしたら……」
「そうだなぁ……まぁ、とりあえず、一緒に寝るか」
「寝る!?」
真っ赤な顔で飛び上がったナディアを見て、ジャミールは声をたてて笑った。
「はは、そんなに警戒するな。まったく、ここまで長い旅路だった」
ジャミールは砂に汚れたマントを外して長椅子に放り投げた。腰に佩いていた半月刀は壁に立てかけ、頭部をきつく巻いていた黒のターバンを外して、こぼれた髪をくつろいだ様子でかきあげる。
(……太陽の色)
ナディアは瞠目してその姿を見つめた。首筋まで流れる、目に鮮やかな金色の髪。
男は、ふぁっと無防備にあくびをした。その横顔が思っていたより幼く映って、ナディアの頭の中で、閉じていたはずの何かがざわつきはじめる。
(紅い瞳の、黄金の髪の、男の子)
ナディアはこめかみに手を当てて、ぎゅっと目を瞑って小さく呻いた。
(ジャミール……使用人の、ジャミール。どうして思い出せないんだろう)
「どうした、痛むのか?」
ジャミールはナディアの前に片膝をついた。眉をひそめて、こちらを真剣に覗き込んでくる。
「横になった方がいい。寒くはないか?
矢継ぎ早に言って、ジャミールはナディアを寝台に押し倒した。
「きゃっ」
「熱はないな。顔が赤いが……そうだ、その首輪もさっさと取り去ってしまわないと」
鋏を探しに、ジャミールが立ち上がろうとした。その腕を、ナディアが掴んで止める。はたと動きをとめる男と、寝台の上で、時間がとまったみたいに見つめ合った。
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