オアシスにて3
「二度めだな、お嬢様。まさか全く意識されていないとは思わなかった」
狼狽するナディアに不敵に微笑みかけ、ターバンの布陰から覗く真紅の瞳はハーディンたちに向かって細められる。
「──そう言うことなので、ご心配なく。俺には俺の考えがあります。これからゆっくり、口説き落とすつもりでした」
あっけにとられる年長の二人を前に、ジャミールは飄々としている。ナディアは恥ずかしさで死にそうになった。
「義兄上、姉さん。俺はナディア様を娶るつもりだ。その気持ちは当時から何も変わらない…………けどなぁ、そんな簡単に伝えられるもんじゃないだ。わかってくれ」
「何それ、あんた、もう」
「弱みにつけ込むようなやり方は好まない。まぁ、逃すつもりもないけどな」
(つつつつまりジャミールは、初めから、私と結婚するつもりで)
ナディアはどんどん熱を持つ自分の頬を押さえた。もう彼の方を見ていられない。どんな顔でこの友人たちに囲まれたらいいのか。カーラもハーディンも、ジャミールの気持ちを知っていて、結婚させる気でいたなんて──。
(好きだから、助けてくれたの? 義賊だからとか、そう言うのではなく……私の、ために……?)
俯くナディアを気遣って、カーラが優しく声をかける。
「申し訳ありません、お嬢様。私は、ジャミールとの関係を強要するつもりはないのです。ただ……もう、ドゥーヤのお屋敷には戻れませんし、ほかに安全なところと思うと、ジャミールや私の側が良いと考えていたものですから」
「しかし、シストゥールに入る前には覚悟を決めていただかないといけません」
ハーディンの鋭い声が耳を刺す。
「それとも、元奴隷の伴侶になる選択は、ドゥーヤ人の貴女にとって屈辱なのでしょうか」
「そんなつもりでは」
ナディアは眉根を寄せた。
「義兄上、そのようにお嬢様を責めるな」
「それは違う。お前やカーラが言わぬのなら、俺が伝えねばならんことだ。お嬢様、我らの都ではドゥーヤ人はあまり良く思われていません。なにせ長年、我らを鎖で繋ぎ、恋人や家族と引き離し、奴隷として売買してきたのは、ドゥーヤの国民なのですから」
近くでパチパチと焚き火が燃えているのに、肌寒さすら感じ始める。あたりは夜闇が一層深く、沈黙が重くのしかかる。
「……つまり、シストゥールの民に、ひどく恨まれているのですね、ドゥーヤ人は」
「ドゥーヤの民にもいろいろな者がいる、ということは皆理解しています。ですが、何世代にも渡り一方的な支配を受けた我らの恨みは深い。その怨讐の矛先が、嫁いで来られたお嬢様に向けられたとしても不思議ではありません」
ドゥーヤ人にとって当たり前の奴隷。その彼らにも、家族がいて、家があった。
ナディアにだって薄々は分かっていた。
太守に付けられた枷の痕が、ヒリヒリと痛む。
「恨んでいる? お父様や、お母様や、私を」
「あなた、それくらいにして。お嬢様、そんなことは決してありませんのよ」
「カーラ、ありがとう。でも、ハーディンの気持ちが聞きたいの。……私、何も、知らなかった。知らないで、生きてたわ。あなたたちのこと、疑問に思ったことなんてなかった」
彼らと自分は良い関係なのだと、ずっと信じて疑わなかった。けれど違った。支配される側の気持ちなんて、ナディアは一度も考えたことなんてない。
それこそが両者の決定的な違いだった。支配される側と、する側の。
これから向かう
この先に進むためには、どんな覚悟をしたらいいのか。彼らはナディアに、何を望むのか見当もつかない。そんなところに行くのは、とても恐ろしいと思う。
俯くナディアの肩を抱くジャミールの腕に力が入る。
(あなたは? なぜ義兄に、周囲に流されずに、私を好きでいられたの……? 盗賊王ジャミールは、黒の民たちの希望だったでしょうに)
ジャミールは真っ直ぐにこちらを見ている。その目に迷いは感じられない。むしろ見つめ返すのが難しいほどに、熱くナディアを射る──。
「ジャミール様、ハーディン様」
沈黙を破って、黒づくめの仲間たちが数人、ただならぬ様子で影から飛び出してきた。顔色を変えたジャミールとハーディンは急ぎ焚き火から離れて、彼らと顔を突き合わせて熱心に話し始めた。
「何かあったか」
「国王軍の騎馬隊が周辺をうろついているようです。ここも危険かと。移動を、お早く」
(国王軍?)
話を聞くなりジャミールは砂を蹴って焚き火を消し、カーラは急いで器や敷物を自分の袋に詰め込み背負った。ナディアだけが事態を把握できないまま、暗闇の中で茫然と立ちすくんでいる。
オアシスは相変わらずしっとりと静かなのに、岩の物陰に何かよくないものが隠れているような、そんな気がする。隣にカーラがいなければ、忍び寄る闇の恐怖に耐えきれなかったかもしれない。
「すぐに出発する」
闇に追われるようにしてナディアたちは馬の元へと急いだ。
「何か恐ろしい者たちが、近くに……?」
「国王軍が、な。ドゥーヤの国王様は隣国への出兵準備に忙しいらしくてなぁ。ここ数年は特に、いくら人手があっても足りんらしい。まるで我ら遊牧民を根絶やし狩り尽くさん勢いだ」
異常を感じとった馬たちは興奮しているようで、足並みを乱して荒い呼吸を繰り返している。ジャミールがアリラトを呼ぶと、神秘の白馬は優雅に姿を見せた。
「ドゥーヤ人にとって、俺たち遊牧民はあくまで奴隷なのさ。首都アル・カウンでは特にその傾向が強い。捕まって、貴女を奴隷に堕とすわけにはいかない。何としても逃げ切らねば。俺が数人連れて、囮になろう。アリラトには義兄上が」
「それはならん、ジャミール。花嫁を攫ったからには最後まで面倒を見るように」
そう言うとハーディンは長衣を翻して、自分の馬を引いてきた手下とともに、囮をつとめる準備を始めた。
「カーラ、お嬢様とジャミールを頼むぞ」
「ご無事で」
「無論だ」
「ハーディン」
思わず引き留めたナディアを振り返って、ハーディンは静かに頷いた。
「お嬢様、先ほどの答えは、次にお会いした時に」
ハーディンは漆黒の愛馬に跨ると、馬上からジャミールに呼びかけた。
「トゥアーグ族の手練れを5人ほど連れて行く。なるべく遠くまで追われてやるつもりだ」
「どうか無理はなさらぬよう。相手の数は」
「30ほどの小隊だと。まぁ、軽くいなしてこよう。お前はせいぜい頑張ってお嬢様を口説き落とすことだな」
馬頭を巡らせ、振り返ってハーディンは叫んだ。
「では、しばしの別れ」
砂塵を巻き上げ、闇の向こうへと走り去って行く男達を見送る。
「俺たちも行こう」
ジャミールが片手を挙げ合図を送ると、手下たちは素早く隊列を整えた。カーラもすでに前を向いている。後ろ髪を引かれる思いでナディアは背後を振り返った。
敵地に乗り込む兵の気持ちなど想像もしたことはなかったのに、今はハーディンたちのゆくえを自分と重ね合わせてしまう。
怖くないのだろうか。
迷ったり、後悔したりしないのだろうか。仲間のために自分を犠牲にしてまで。
ナディアはジャミールの腕に包まれながら、この道の先について考えを巡らせた。
太守の目の届く街には戻れない。首都ならどうだろう。父の商隊と接触できればあるいは……。
けれど少なくとも、攫われた花嫁であるうちは、盗賊王ジャミールの庇護下にいなければならない。ナディアにはこの砂漠を一人で越える力はない。たとえカーラと一緒でも女だけでは無理だろう。
(……ジャミールの、妻として生きる覚悟を……)
ナディアは目を閉じた。考えなくてはならないことはたくさんあるのに、体の疲労が限界に近い。どこまでも続く平坦な荒野とアリラトの軽快な走りが、しだいに彼女を眠りへと誘った。
白馬は高らかに蹄の音を鳴らし、夜の砂漠を駆け続けた。
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