オアシスにて2
「寒くないの……?」
「心配無用だ。
「そんなはずはないわ。暖まったほうがいいと思う」
全身濡れ鼠になったジャミールがようやく泉から上がってきた時にはすでに、ナディアは花嫁衣装を身につけ終えていた。
「おお、似合うな」
ジャミールは濡れたマントを絞りながら、ぱっと顔を輝かせた。
「髪は、少し出してもかまわない……そう、そんな風に」
「ドゥーヤで流行りの衣装と、着方がだいぶ異なるのですね」
「それはそうだろう、門外不出の織物だ。しかし、同じ布を纏っていてもカーラと全く雰囲気が変わるのだなぁ。あの姉ですらそれを着て義兄上と並んだ日には一国の王妃のように美しく見えたが、貴女はやはり格別だ」
「それは大げさで……、カーラはとても綺麗な人だわ」
「まぁ、姉というのは弟にとっていつまでも怖い生き物だからなぁ」
両親とたくさんの使用人に囲まれてはいたが、実の姉や兄のいないナディアにとっては、その辺の微妙な機微を完全に理解するのは難しい話だった。
「お姉さんなのに、怖いの? なぜ?」
「そういうもんなのさ。俺も今じゃ世間に盗賊王などと呼ばれているが、彼女には一生、勝てる気がしない」
「カーラとあなたはどうやって過ごしていたの? カーラはずっと我が家にいたのに」
ジャミールは濡れたマントを外し、皮靴を脱ぎ捨て肩に担いでナディアを仲間たちのいる明るい場所へと促した。
「覚えちゃいないかなぁ、お嬢様」
「私と貴方、会ったことがあるのね? いつ? どこで?」
ドゥーヤでは、女は学校に通わない。ナディアのように裕福な商家であれば家庭教師を呼ぶこともあるが、そういった理由で同世代の異性と知り合う機会はほとんどない。成人しても職は少なく、早々に見合い結婚するのが普通だ。
ただ、ナディアの家には男女問わずたくさんの使用人がいた。ドゥーヤ人の多くの家にとって、使用人奴隷の存在はごく一般的だ。
彼らの大半は異国の地で捕らわれ売買された者たちで、元々は遊牧民だったり、肌の色が違う大陸の人間だったり、人種は様々。そのなかでも
「信じられないけど、もしかしてあなたも、奴隷だった、とか?」
「カーラと俺は、異父姉弟なんだ」
そうだとも違うとも言わず、ジャミールは前を向いて歩き続けた。
「……そう、それで瞳の色が違うのね」
「もう亡くなったが、母が黒の民で、俺の父は……いや、父のことはまぁ、おいおい。カーラの父は黒の民の族長だ。隠していたのだろうが、彼女こそが生粋の黒の民なんだよ。そして彼女の夫は、ハーディンと言う名の次期族長だ」
「ハーディン?」
ナディアは眉を寄せた。聞き覚えがある響きだ。
「俺たちは3人とも、貴方の家に仕えていた奴隷だった」
ナディアははっと彼の顔を見上げた。どこか遠くを眺める、凪いだ横顔。
「貴女の家の裏に、家畜小屋があったろ? 俺は、駱駝たちの世話をするフリをしてあそこでサボってばかりいた。義兄上とカーラは、ご主人の覚えも良かったから重宝されていたんだぞ。……ほら、ここまで話せば少しは思い出さないか?」
「本当なの? あなたの、ジャミールという名前は偽名?」
「いやいや。物心ついた時からそう名乗っている。ただ、たしかに貴女に名前を呼ばれたことはないかもな。昔から、俺が一方的に想っていただけだから」
広場のかがり火に近づくにつれ、仲間たちの話し声が耳に届くようになる。
(お、想って、って……、それ、どういう意味で……)
タイミングを完全に逃したナディアは、沈黙したままジャミールの背を追う。
「お嬢様っ!」
知っている声を聞きつけて、ナディアは驚いてその先に目を凝らした。
「カーラ……!」
ナディアは駆け出して、腕を広げた友人の胸に飛び込んだ。
「お嬢様、ご無事でよかった……! どこかお怪我は? さぞお辛かったでしょう、お側にいられず申し訳ありませんでした」
「大丈夫よ、怖かったけど、手遅れにはならなかったの。カーラ、貴女たちのおかげよ。私、貴女に謝らないといけない」
「何を謝ると言うんです。さぁ、火に当たって──なんて冷たい体なの──、ちょっと、ジャミ! なんでこんなにお嬢様は冷えているのよっ。砂漠の男達といっしょにしないでちょうだいよ、お嬢様は長旅などしたことのない方なんですからねっ」
「いいのカーラ。彼らは悪くないわ、私を助けてくれたんだもの」
「少し落ち着きなさい、カーラ」
焚き火に集う荒くれ者の集団に似つかわしくない声がしてナディアは顔を上げた。穏やかに諭されたカーラも口をつぐむ。
ジャミールが背後で「義兄上」と呟いて、男たちは互いに強く抱擁を交わした。
「首尾よくやったな、ジャミール」
「感謝します、義兄上」
長い髪を束ね、白っぽいクーフィーヤを被った男性だ。背はジャミールよりさらに高く、少しこけた頬には冷然とした表情がよく似合う。濡れ羽色の気高さを纏う男の姿には、見覚えがあった。
「ハーディン?」
「覚えておいででしたか、お嬢様」
「実は、いま思い出したところなの。でも、懐かしい。よく見れば、昔と変わらないわ……」
使用人のハーディンといえば、思い出すのは商売人である父の良い右腕だったことだ。頭が良く、計算が速く、おまけに顔までも良いので女性客受けすると、父の大のお気に入りだった青年。
昔から老成した雰囲気の持ち主だったが、年月を経て再会するとなお、多少の物事では動じなさそうな落ち着きが頼もしく映る。ジャミールが義兄上と慕う理由がわかる気がした。
ハーディンの長衣と装飾品は艶のある漆黒に統一されていて、これこそが
「私の、15の誕生日以来でしょうか」
「ええ。俺たちが解放されたのは、お嬢様の誕生日祝いと合わせてのことでしたから。さぁ、火の近くに。少し食べた方が良いでしょう。我らの都までまだまだ走ります」
焚き火の前にはナディアとカーラ、その横にハーディンが座る。ジャミールは少し離れた木の幹に背を預けて、腕を組んでその様子を眺めている。
香辛料の効いたピリリと辛いスープは眠気を追い払ってくれるし、胃が温まると身体にも力が戻ってくるようだった。飲み干した器を敷物の上に置き、改めて友人に向き合ってナディアは言った。
「カーラ、私、何も気づかなくて……ごめんなさい、長い間。我慢させていたのでしょう」
「なんのことです?」
「恋人がいるなんて、知らなかったんだもの。教えてくれたらもっと早く自由にしてあげられたのに」
「まぁお嬢様ったら、そんなこと」
「大事なことだわ」
ナディアは拗ねたように口を尖らせた。使用人奴隷の解放は、ドゥーヤ人にとって徳のある行いとして好まれるものだ。カーラに恋人がいると知っていれば、きっとナディアの両親も喜んで支度をしただろう。
「あなたが盗賊王に手紙を書こうなんて言わなければ、今頃どうなっていたか……。こうして無事に連れ出してもらえて、貴女にもジャミールにも、感謝しかないわ」
「ナディア様……!」
感極まったカーラは珍しく目を潤ませて、何度もナディアを抱きしめ、手の甲を目に押し当てて涙を拭っていた。
「怖かったでしょうに、手首がこんなに腫れて。その首輪も。あの太守は本当に何という事を……早く外してさしあげたいけど、首ですからね、ちゃんとした道具でないと。痛みますか?」
「さっき泉で冷やしてきたの。だから平気よ」
ジャミールと2人で、とは言えず、ナディアは後ろめたさを感じて視線を落とした。カーラにも言えないようなことを、男の人としてしまった──馬上での口づけもそうだし、素肌もたくさん見られている。もはやこの身は、ドゥーヤの乙女と呼べるほど清くはないのかもしれない……。
ナディアの膝を覆う美しい朱金の刺繍は、花嫁を守る護符の意味をもつ。ドゥーヤでもドゥーランでもそれは変わらぬようで、初めて見る模様なのにどこか既視感があった。
大人に庇護されていた『娘』から『妻』へと変わる婚姻の夜は、無防備な乙女を狙う
しかし太守サルタンは、己の欲望を満たすためにナディアにそれを着せなかった。
だから、逃げだせたのかもしれない。ジャミールに、ジンが味方したのかも。女のジンは、美丈夫を好むというし。
(この先はカーラも、ハーディンもいるし……安心していいのよね?)
刺繍をなぞっていたナディアは、あっと気づいて、今度はカーラとハーディンを見比べ、頬を押さえた。
「そ、そうだわ、おめでとうカーラ。ハーディンも。結婚したんでしょう?」
カーラは少しまごつきながらも、頬を染めて頷いた。
「ご相談もなしに、申し訳ありません」
「いいのよ、お父様だってお怒りにならないでしょう。好き合っている人と結ばれるなんてとても素敵」
「俺たちの結婚は、貴女のためでもあるのですよ、ナディア様」
「わたし?」
「あの街にドゥーヤ人を迎えるとなると、貴女の身を守り、後見人となる男女が必要ですから。ジャミールとの成婚の儀をつつがなく執り行うためにもね」
ナディアは目を瞬いた。
「せいこん……、結婚……?」
意味を飲み込んだナディアは、みるみる頬を赤らめた。
(この衣装、魔除けのためだけじゃなかったの!?)
背中にジャミールの視線をひしひしと感じる。そっちだけは絶対に見ないようにしながら、今度はハーディンとカーラの間でおろおろと視線を彷徨わせる。
二人は目配せし合ってから、木にもたれかかっているジャミールを睨みつけた。
「ジャミ。お前、お嬢様にちゃんとご説明したのか?」
「あんた! まさか何も言わずにこの衣装を着せたんじゃないでしょうね!? お嬢様の同意もなしに!? そんなんじゃあの太守と同じでしょう!?」
「ふ、二人とも……そのように、声を荒げずとも」
ナディアが二人を宥めようとしたとき、背後から肩に手が置かれた。ジャミール、と呼ぶ前に、彼はナディアの肩を抱くと、そのまま強引に唇を奪った。
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