オアシスにて1

 目の前の泉は、ナディアの知るオアシスより小さいものだった。湧き出る水量は、滔々とうとうと溢れるドゥーヤのそれとは比べ物にならないけれど、水面は澄みきっていて鏡のように波一つない。


 オアシスの周りに点々と繁る木々の葉擦れの音、ひそやかな小鳥の鳴き声や虫の音は聴きなれたもの。砂漠とは全く違う生命に満ちた空気がオアシスにはある。

 そして天上には、濃い群青の夜空に散りばめられた星の瞬き。

 ただ1人、ナディアだけがこの穏やかな情景に似つかわしくない気持ちでここにいる。そんな気がした。



「すぐ戻る」


 黒衣のマントを翻して馬を降りたジャミールは、ナディアが何か言おうとする前にはすでに、仲間たちの輪に溶けこんでしまった。


「上々だ! 追っ手の気配もない」

「囮部隊も、合流できました」

「お頭! ハーディンが到着しましたぜ」

「おお、義兄上が」


 一つ、二つと松明が焚かれると、彼らの様子が遠目にうかがえた。自然とジャミールを中心とした輪ができているのがわかる。仲間たちとの距離は近く、肩を組んで談笑しているようだ。ナディアは背の高いサイカスの木陰から、その様子をこっそり眺めた。


(王らしくないし、かといって卑しくもない。粗野に見えて気高くもある……不思議な人。言われてみれば、カーラと似てるかしら。少なくとも、瞳の色は違うけど……カーラは普通の黒っぽい目だったのに……黒の民ドゥーランはみなああいう感じなのかしら)


 カーラの弟だとわかるとほんの少しだけ警戒心は薄れた。きっと、シストゥールに着いてからもそう悪いようにはされないはずだ。遊牧民の生活がどのようなものかはわからないけど、カーラと一緒ならなんとかなりそうな気がする。


 安心感は一気に疲労を連れてきた。

 深夜の逃避行は思いのほか体力を消耗したようで、今になって体のあちこちが悲鳴をあげている。

 サイカスの固い樹皮に体をもたれかけさせて泉を眺めていると、思い出されるのは故郷ドゥーヤの青々としたオアシスだった。


「いい夜だ。お前たちも少し休め」


 手下たちの輪から離れたジャミールが、砂を踏みしめこちらにやってくる。

 松明で照らされていても、彼の格好は不思議と闇にまぎれる。紅い瞳ばかりが異様に輝いて、遠目からでもナディアを捉えているのがわかった。急いで顔を伏せて、砂利っぽい地面を素足で掻く。


「……泣いているのか」


 距離を置いて立ち止まったジャミールが言った。純粋に驚いているような声音に、ナディアの中で罪悪感がふくらむ。露骨に避けてしまった。彼は、助けてくれた恩人なのに。


「俺のことが、気に入らないか?」

「そういうわけでは……」

「ならどうして俺を見ない?」


 気を許してはいけない気がして。

 そうすればあとはもう、転がるように落ちていくだけだと。


「……、……見られたくない、からでしょうか……」

「ああ、たしかに。寒かろうと思って、替えの服を用意した。すぐ着替えるといい、ほら」


 ジャミールは大股で距離を縮めると、白っぽい織物を広げて、ナディアの前にあてがった。


「うん。間違いなく、こちらの方が似合うだろう」


 マスクを下ろした彼は、にっと口の端をあげて笑った。砂漠の盗賊王だった男が、途端にやんちゃな青年の印象に変わる。ナディアはこわばっていた体の力をゆるゆると抜いていった。


「ドゥーランの織物、どれもとても美しいですね」


 夜の闇の中でもわかる、薄い生地の艶めき。複雑な刺繍模様が朱色と金の糸であしらわれていて、豪奢でありながらも上品で美しい。指の滑りもたまらなく良く体温に馴染み、ずっと触れていたい気持ちになる。


「そうだろう? まぁ、これは特別だけどな。花嫁衣装だから」

「え……?」

「姉が、自分のために織ったものだ。貴女のお陰で、姉もついに自由を手に入れた。義兄上と姉は、ずっと前から想い合っていたんだ。家族として、俺も感謝している」


 目を瞬かせるナディアに向かって、ジャミールは祈るように目を閉じた。


「貴女がサルタンに囚われてくれたからだ」

「そんな。カーラこそ私を助けてくれたのに……これ、本当に私が着ていいの?」

「かまわない。彼女はすでに婚姻の儀式を済ませたし、これは母から娘、姉から妹へと受け継がれるものだから」


 そんな大切なもの。ナディアが拒む前に、ジャミールはナディアの体に巻いた布の結び目をほどいてしまう。


「あっ、待って!」

「そしてこの鎖も」


 太守につけられた首輪に手枷があらわになる。必死に隠そうとしても、ジャミールの視線は強く彼女を射抜き、決して逸らされることはない。


「やだ、見ないで……!」

「そうだな。俺だって、他の男に縛られた貴女を、これ以上見ていたくはない。すぐにでも解放してやりたい」


 そう言って、懐から宝石のついた小瓶を取り出し、それを手袋に包まれた指の間で弄んでいる。


「あの悪趣味な部屋で盗んだ唯一の品がこいつさ。おそらく潤滑油だろう。あの極悪太守が何に使うつもりだったのかと考えると吐き気がするが、これがあればその鎖を外してやれるかもしれん、と思い至って拝借した」


 涙目のナディアが後ずさると、ジャミールはぽいと小瓶をナディアに投げてよこした。手のひらに収まるほどの小さなガラス瓶。中に、とろりとした液体が揺れている。


「これを塗って、滑らすということ? じ、自分でやるわ」

「できるか? 痛みは? 我慢できるのか? 滑って余計にやり辛くなるだろうし」

「じゃあ、……せめて、あとでカーラに……」

「ほう、あの姉にその姿を見せる勇気が? 憤った獅子が、太守への仕返しにどんな暴走をするかわからんぞ。それに、」


 薄暗く陰った瞳で、ジャミールはつぶやく。


「俺以外に貴女のこのような姿を見られたとなっては、……俺はきっと、どんな手を使ってもそいつの記憶を消したくなるだろうな……」


 じりじりと追い詰められて、椰子の木の幹に背を押し付けられる。

 明るく人好きのする笑顔の彼。盗賊王らしい大胆さと、男の非道さを滲ませる彼。

 ──翻弄されてしまう。興味を持ってしまう。彼の深いところは一体、どうなっているのだろうか、と。


「……どうやって、外すつもりなの?」

「オアシスの水で冷やして腫れがひいたら、これを塗って、引っ張る。はめたんだから、抜けるはずだろう?」

「すごく、痛そう」

「傷になる前に外してしまったほうがいい。大事な身体だ」


 緊急事態だから。このままでは到底、シストゥールまで身体がもたないから。自分ではきっとできないから。

 炎に惹かれて飛び込む羽虫のような自分を許して、ナディアは小さくうなずいた。


  ジャミールは俯くナディアの手を取ると、泉のほとりに彼女を連れ出した。

 先にジャミールが泉へと足を入れる。ザブザブとかき分けた大きなしぶきが波をつくり、向こう岸まで円状に伝わっていく。


「さすがに冷えるな」


 振り返ったジャミールは、大きな手で泉の水を掬い上げると、こちらに来るよう視線だけでナディアに合図をした。

 躊躇いながらも、泉に足先をつける。冷たすぎるほどに冷えた水に、ナディアはますます体を縮こませた。一歩一歩、彼の元へと足を進める。

 オアシスの真ん中まで来ても、そう深くはない。男たちの喧騒もアリラトたちの気配も木々に遮られて遠く、あんなに賑やかだった虫の音すらここには届かない。

 ──2人きりだ。

 ふと意識してしまって、ナディアは居心地悪く、2人の間で揺れる暗い水面を睨みつけていた。


「ほら」


 促されて、ナディアはしぶしぶ、彼に背を向けた。薄すぎる花嫁衣裳だが、これだけ暗ければそれほど肌も見えないと信じたい。

 髪をまとめて、彼の前にうなじをさらす。皮の首輪は、汗を吸ってぎちぎちと固くなってしまっている。柔らかな首の皮がかぶれて痒みを訴えている。手枷できつく縛られている手首も真っ赤だ。この冷たい泉の水で冷やしたらきっと気持ちいいだろう。ただそれだけに集中する。


「かけるぞ」


 キンと冷えた泉の雫が、ナディアのうなじから鎖骨、胸の方にまで垂れてくる。


「っつ、めた……!!」

「我慢してくれ」


(恥ずかしがってちゃだめ、そう! これは治療みたいなもので……!)

 

 水滴が肌を伝い、ポタポタと音を立てて水面へと落ちる。波紋はいくつもぶつかり、重なり合い、水面を乱していく。

 いっそ自分で、泉にこの身を沈めてしまえば──そうすれば肌も見られずに済む──恐ろしく凍えるだろうけど。

 何度も水掛けが繰り返されているうちに、たしかに彼の言う通り、焼けるような痛みは治まってきた。代わりにぶるりと大きく身震いする。


「寒いよな。早く終わらせよう」


 ジャミールはひょいとナディアを抱き抱えて岸辺を目指した。


「歩けますから!」

「脚まで冷やす必要はないんだ」


 泉から上がった2人は、さっきまでナディアが身につけていた薄手の織物で体を拭き、椰子の木の根元に向き合って座った。近くの岩に立てかけた松明が、2人の半身を照らす。


「あ、あの、これは自分で塗らせて」

「どうぞ」


 ジャミールはあえてこちらを見ないように、遠く馬たちのいるほうを眺めている。

 その隙にナディアはこそこそと小瓶を開けた。

 薬指にとった粘着液を恐る恐る手首に塗り込んでみるが、案の定じんじんと沁み始めた。何の成分なのかわからないけど、濃い花の香りもする。どのくらいの量を塗り込めばいいのか。適当に垂らしたあと、試しにゆっくりと鎖を引っ張ってみる。

 ひたすら痛むだけで、手枷は外れそうにはない。


「…………………やっぱり、……助けて、お願い」


 半泣きになってナディアは言った。痛みは人を気弱にするようだ。


 小瓶を押し付けられたジャミールは、しばらくそれを眺め──おもむろに手袋を外すと小瓶を傾け、潤滑油を手のひらにひろげた。

 2人の視線は合わないまま。息をするのも躊躇われる沈黙があたりを支配する。


「……触るぞ」


 言うなり大きな手が手首をやんわり掴んで、ナディアは息をのんだ。熱くて硬い手のひらがゆっくりと力を込めて、手首から手の甲、指先へとさするようにぬるい液体をのばす。繰り返し、繰り返し。


「ん…………!」

「すぐ終わる」


 すぐ近くに、ジャミールの息遣いを感じる。見られている。触れられている。

 傷は痛い。痛いけどそれだけではなく──。

 何か──よくわからない何かが、体の内側から込み上がってくる。ぞわぞわと落ち着かない熱。身悶え、思わず自分で自分の唇を噛んでいた。


(やだやだもう、何の罰なのよこれ……)


 ジャミールの指は細やかに動いている。金の輪と手首の隙間を広げようと油を塗り込まれる。ただひたすらに耐えるしかないナディアは、息も絶え絶えになってその様子から目をそらした。なんだか見てはいけないものを見せつけられているような気になって。


「……──取れた」


 手枷は音を立てて地に落ちた。

 ナディアはぐったりと幹にもたれかかって目を閉じた。ただ手が触れ合っただけだ。なのにひどく疲れた。

 ナディアの向かいで、深く大きなため息とともにジャミールも項垂れる。


「こりゃ拷問だよなぁ、お互い……」


 目を閉じ息を整えることに必死だったナディアには、男の苦悶の声に気づかない。

 ジャミールはそっとナディアの指先を持ち上げた。


「痛むか」

「すごく! すごく、痛かった……」

「すまん、気を使ったつもりだったが余計に手間がかかってしまった……」

「い、いいえ、……ありがとう、ございました……あなたの言うとおり自分一人では、無理でした」

「いや上手くいって良かった。その、……よく耐えたな」

「う、ん……」


 ジャミールは頭を振って、ナディアに背を向けた。


「すまんが自分で着替えられるか、お嬢様。俺がこれ以上、無体を働く前に」


 そう言うや否や再び泉へとずかずかと降りて行ったジャミールは、ナディアが心配するほど長く、文字通り冷水で頭を冷やし続けていたのであった。

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