夜を駆けるふたり1

 右へ左へ小道を抜けたかと思えば拓けた場所に出た。

 尖塔の先に、細い月。毎日通っている礼拝堂だと気づくまで時間がかかった。太守の館とは、広場を挟んでちょうど街の反対まで来たことになる。


「お頭っ! ご無事で?」


 ほとんど気配もなく、黒っぽい集団が木陰から飛び出してきた。

 闇に溶けるような彼らはナディアたちの周りを囲むように膝をついた。驚くナディアの横で、ジャミールは目元を細めて口元を隠すマスクに手をかけた。


「阿呆、大声で呼ぶやつがあるか!」


 顔を露わにした彼は、ナディアの想像以上に端整な顔立ちの青年だった。若く溌剌とした、そして人好きのする笑みを浮かべて、手下たちを一喝する。


「お頭の方が声がでかいですって」

「おう、すまん。すぐにここを発とう、長居はできん。追っ手に気を配れ」


 彼が一声かけると、男たちは再びあちこちに散る。ナディアが呆気にとられている間にも、俊敏に武器や水らしき袋や人数分の馬が用意され、みるみる隊列が組まれていく。


「花嫁さんの馬も用意できてますからね」

「もう太守の花嫁ではないぞ。あー、彼女は、俺と乗るから」

「へぇへぇ、そうおっしゃると思いまして、アリラトを連れてきましたよ」


 引いて来られた馬にナディアは目を奪われた。こんなにも美しい白馬は見たことがない。睫毛の一本一本までもが白く、ジャミールと同じ赤い瞳をしている。つぶらな目は、主人を見て嬉しそうに瞬いた。


「アリラト、頼むぞ。荒野越えにはお前の脚がなくてはな」


 口にくつわをされていようと家畜らしい卑屈さはなく、ゆったりとこちらを見ている。名前どおりの、気高い月女神のような姿。ナディアが見とれている間に、ジャミールは手下の用意した大判の布を素早くナディアに纏わせた。


「その花嫁衣裳は目立つ。これを」

「は、はい。ごめんなさい……これを巻けばいいのね……」


 肩で縛った布は衣服の代わりになり、多すぎる肌の露出を幾分マシにしてくれた。忌々しい首輪と手首の鎖はそのままだったけれど、美しい布に隠れて見えなくなると少し気が紛れた。

 ──そういえば、まだお礼を言っていない。

 盗賊王のマントを引っ張って気を引くと、彼は目を丸くして振り向いた。


「なにか?」

「あ、あの……ありがとうございます。サルタンの衣装は嫌だったし、実は少し寒かったの。助かりました」


 ジャミールはしばしきょとんと瞠目し──それから、口を覆ってふいっとそっぽを向いてしまった。


「いや。女人を気遣うのは男として当然のことだ」

「これ、とても素敵な生地ね。滑らかで気持ちよくって……もしかしてこれも、どこかのお金持ちから盗んだ品なの?」

「いや、違う。それは、我が一族の伝統的な工芸品で……すまんが、先を急ぐ。続きは馬上で話そう」


 ナディアは抱き上げられ、鞍にすっぽりと乗せられた。盗賊の馬というのはどんなものだろうと不安だったが、想像以上に乗り心地が良い。それに、これでようやくジャミールの腕から解放される。

 と思ったのに、彼は当然のようにナディアの後ろに乗り上げた。片腕でナディアを抱けるよう、より密着するように引き寄せられる。


「あの、私。一人でも乗れます」

「ほう、すごいな。貴女はいつでも遊牧民の嫁になれる。が、今は俺の前に。その鎖で手綱を取るのは無理があるだろう。俺が切ってやってもいいが……」


 ジャミールはそう言って、腰に挿した半月刀を引き抜いた。

刃を鎖に押し当て断ち切ろうとするが、限界まで引っ張られた鎖のせいでナディアの手首はビリビリと強い痛みに襲われる。


「あっ、だめ! ちぎれちゃうっ……」

「ほら、な。それはきちんとした手順で解かなくては、貴女の身体に痛みだけをもたらす拘束具のようだ。痛かったな、すまない。諦めて俺と乗ってくれ。アリラトは俺のいうことしか聞かないし、一応、貴女は今晩の戦利品なのでね」


 結局、手綱を握ったのはジャミールだった。確かに攫われた身の上で自分の馬を要求するのは浅慮だったなとナディアは肩を落とした。せめてこの鎖さえなければ。

 痛みを紛らわすために、辺りを見渡す振りをしながら隊列を盗み見る。遊牧民と聞いて思い出すものがあった。


(彼らはもしかして……黒の民ドゥーラン?)


 砂漠地帯の奥深く、ドゥーヤ国の王政の届かない地に住む誇り高き一族のお話。荒野を転々としながら、訪れる町々で悪を倒し、弱きを救う英雄がいると、吟遊詩人の唄で聞いたことがある。

 高貴な獣のようにしなやかな義賊ジャミールは、ナディアにとってもはや物語から飛び出してきた救世主ヒーローそのものだ。


「よし、出発だ」


 ジャミールが手綱を引くと、まずアリラトが頭の向きを変えて歩き始めた。さくさくと砂を踏みしめる音が続く。彼らはアリラトを先頭にして、次第に歩みを早めて行った。


 街門の外は岩石と土だけのわびしい景色が広がっている。地平線の彼方まですべて闇の中に飲まれた、不毛の大地。唯一の光ときたら、ガラスを砕いたような夜空いっぱいの冷たい星明りだけ。


 ナディアはぶるりと身を震わせた。夜の砂漠は恐ろしく冷える。それだけではなくて、夜行性の獣や夜盗なども出るというから、ドゥーヤの女子供は絶対に夜の町の外へは出ていかないのだ。


(でも、そうよ。私ったら今まさに、盗賊に攫われているんだもの……)


 少なくとも夜盗の心配はないのだろう。ナディアの背を支えているのは、盗賊たちの王、ジャミールだ。

 どれくらいの距離を走るのだろう。マントの前を搔き合せて、なるべく小さく身を縮めた。


「寒いかい」


 ジャミールが、マントごとナディアの体を強く抱え直した。寒さよりなにより、彼の逞しい腕が体に触れるのが落ち着かない。家族以外の男性と体を寄せ合うなんて、これが初めてだ。耳元でジャミールの低い声がするたび心臓がどきどきして、耳が熱くなる。

 こんな自分は、軽くて流されやすい女なのだろうか。見くびられるのが嫌で、わざとそっけない態度をとってしまうのだった。


「ちっとも。私だって砂漠ドゥーヤの女だもの、これくらい平気です」

「朝日が昇る頃には着く予定なんだが、その頃が一番冷え込むんだ。寝られるなら今のうちに寝てしまった方がいい」


 なぜこんなにも気遣われているのか不思議に思えてくる。今のナディアは彼の盗品だ。生かすも殺すも彼次第。帰る家もなく、金目のものだって持っていないのに。


「……あの、聞いてもいいかしら」


 アリラトの神秘色のたてがみが夜闇にぼうっと浮き上がって見える。きっと後ろを走る仲間たちには砂漠を疾走する白馬の姿が、地上を駆ける流星のように見えるに違いない。行く先はほとんど真っ暗闇なのに、ジャミールは自ら先陣をきって荒野を突き進んだ。


「あなたたちのこと、知りたいのです」

「おや、俺に興味がある? そういう事ならなんなりと。ただし舌を噛まぬよう気をつけて」

「私たちどこへ向かっているの? あなたたちはどこから来たの? この布の模様、ドゥーヤでは見たことがなくて、もしかして黒の民ドゥーランの意匠じゃないかって……あなたたちは──あなたはやっぱり、そうなの?」

「おお、ドゥーラン族をご存知か」


 ジャミールの声が弾んだ。彼らの隊列は、細い月が沈む方向へとひたむきに走り続けている。


「これから俺たちが向かうのは砂漠の夜明けシストゥールという名の街だ。黒の民ドゥーランも、トゥアーグ族もドゥーマル族も、その他の少数民族をも交えた巨大集落さ。石造りの古代遺跡と色とりどりのテントが同居する街を見たら、貴女はなんと思うかなぁ」

「その街では、あなたが王様なの?」

「いやいや、王はいないよ。それぞれの民に長がいて、決め事は会議で決まる。俺はジジイたちにはできないちょっと過激な仕事を引き受けつつ、気が向けば、ま、義賊の真似事もする。とは言っても」


 ジャミールは砂除けのマスクを下げて、ナディアの耳元に囁いた。


「貴女のことは、ちょっと予定外の仕事だったけど」

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