蝶の秘密2
ファラーシャの石膏のようにきめ細やかな肌に見とれていたら、赤銅色の瞳が間近に迫っていた。
「ちょっと、近っ……」
腕を突っ張って押しやろうとしたせいで、椅子が激しくぐらつく。
背を支えてくれたのは、男の腕。女性と見まごうばかりの艶やかな容姿なのに、ナディアをしっかり抱きすくめる力は男性のものだ。
額と額がくっつくほどに近づいて、そこが燃えるように熱くなる。
「ちょっと、ファラ、」
『貴女はジャミール様と共にいろ。俺の手には余る』
「声、なんで……?」
『一度繋がった線なら繋げ直せる。無理をすれば、このように数分は。しかし多用したくはない。俺だってジャミール様に殺されたくないし』
身体を離すと、再び無言に戻ったファラーシャが、静かな目でナディアを見下ろしている。
「ええっと、つまり……私たち、触れていたら、いつでも喋れるってこと?」
ナディアの額を押さえて、ファラーシャは顔をしかめた。お互いそこに鈍痛を感じているようだった。
前回より明瞭に響く、穏やかな男の声。これが本来のファラーシャの声なのか。
『お前の声は俺に届きやすいな。こうしていれば何を考えているか、おおよそわかる。お前の中にある不安、嫉妬、迷い……』
「ファラーシャ、やめて! 勝手に見ないで!」
『そうだな、あの方は眩しかろう。あの方の視界に入ろうと躍起になるのは、男も女も、大人も子どもも同じ。皆がそうだ。あの方はそういう星のもとに生まれたのだから──生まれながらの王であり、常に誰かの心を奪う存在』
ナディアはぴたりと動きをとめた。ファラーシャの切れ長の目を正面から見据える。燃えるような赤胴色の、考えの読めない瞳を。
「……生まれながらの、王……」
無表情のファラーシャは、背を支えているのと反対の手でおもむろにナディアの顎を捉えた。右に左にと顔を向けさせ、据わった目でそれを検分しはじめた。
『都の美女らと比べるとまだまだ劣る。だがこの見事な黒艶の髪は評価できるか。あのジャミール様を二晩も褥から離さないのだから、どのような女かと思っていたが』
「なっ、あな、あなた、何言って……!?」
『恥じることはない、妻が夫の身体を満足させるのは義務のようなもの。その点、お前はよくやったといえる。だが王妃とお呼びするのには色気も気品も、今ひとつ物足りんな』
「ちょっと、失礼よ……! それに王妃様扱いされたいから彼と結婚したんじゃないわ」
『お前はそれでもいいが、しかし覚悟はしてもらおう。俺は、あの方を王にする』
「……どういうこと?」
『あの方を王都に連れ帰るつもりだ。新王として即位させるために』
あまりに突拍子もなくて、話がうまく飲み込めない。
──新王として。ジャミールを?
「何を言っているの……? そんなの……」
『できっこない、と?』
ファラーシャの眼はあくまで真剣で、静かな覚悟をたたえている。
『ドゥーヤ国の歯車は狂い始めている。その悪しき波はお前の街にも寄せていただろう。女を殺すことに悦びを感じる太守がのさばるこの国は、もはや静かに終わりを迎えつつあるのだ。王宮勤めの神官らは新王の誕生を待ち望んでいる』
「けど……でも、どうしてジャミールを? 最初にあの人を捨てたのは、王様という話じゃない……」
ナディアはファラーシャの強すぎる視線から目を逸らした。
「それに王位とか……そういうもの、ジャミールは、望まないと思うけど」
『貴女が決めることでもないがな』
「それは、そうかもしれないけど……」
ナディアの反応を見たファラーシャは、面紗の下でうっそりとほほ笑んだようだった。
『ジャミール様には人望がある。離れつつあった人心を引き戻し、多くの民たちの架け橋になられるだろう。俺やお前を救ったように、この国をも救ってくださる。ドゥーヤが善き国になる可能性は、まだ残されている』
賛同も否定もできない。ナディアは虚空を睨みつけたままでいた。
「ジャミールは、あなたの考えに賛成しているの?」
『話したことはない。奥方以外に、俺の声は届かない』
「じゃあ、私から伝えろってこと?」
ファラーシャはそれ以上は答えなかった。肩を掴まれていた手が離れていく。
解放されたナディアは、大きく息を吐いた。額が熱っぽい。
抱きとめられたときに汚れたのだろう。彼なりに詫びているようだが、仮面のような無表情は少しも動かない。
「いいわ、着替えるから。部屋に、戻ります」
ナディアの方は、動揺を顔に出さないようにするので精一杯だ。これ以上二人でいるのは息がつまる。背を向けて、足早に厨を出ようとした。
コツン、と黒板を叩く音につられて、視線をそちらにやる。
目を伏せた麗人は短くなったチョークで書きづらそうに文字を綴った。
『主に、お伝えください。夕食が出来上がるまで少々時間をいただく、と』
「…………わかった。どれくらい?」
『一眠りできるでしょう』
「そう。…………手伝わなくていいのね?」
『必要なし』
ナディアは小さく頷いて、すっかり日の落ちた中庭へと足を向けた。
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