夫婦の作戦会議2
「手伝いは不要なのですって」
意気消沈して帰ってきたナディアのことを、ジャミールは微笑んで迎えた。
「思ったより早かったなぁ」
「ひどいわ。私だって何かしたくて」
「すまんすまん、責めてるんじゃないさ」
ランプを灯した低い卓の前で彼は手招きをして、紙束を大きく広げてナディアに見せた。
「これで貴女の機嫌が直るかな。シストゥールの地図だ」
地図。ナディアは身を乗り出した。
「神殿への道はこの上り坂一本。入口は正面の大扉のみ。入り口に見張りは立っていないが常夜燈で充分明るい。深夜の侵入は目立つやもしれんな──どう思う?」
「どうって……」
複雑に入り組む街並みに興味をそそられ地図を覗き込む。手書きで書き込まれた文字は少し癖があって、紙自体はそれほど古くはなさそうだ。
「もしかしてこれ、貴方が描いたの?」
「仲間との共同制作だな。文字の書き込みは俺のものだが」
「本当に? 盗賊ってすごいのね……これがあれば、今すぐにでも冒険に出られそうな気がする」
心底感心して言うと、ジャミールは何かとても面白いものを聞いたみたいに朗らかに笑った。
「やっぱり、貴女はいいな」
そう言ってナディアを抱き寄せる。膝の上に座らせるとジャミールはナディアの髪に顔を埋めるようにして、後ろから強く抱きしめた。
「冒険に憧れている? それなら次は何が見たい? ナイフか? それともランプや方位磁針? 何を見せれば、今みたいに目を輝かせてくれる?」
「ちょ……っと、ジャミール……」
「ん?」
「作戦会議をしようとしたんじゃないの?」
身をよじると、ジャミールは少しだけ腕をゆるめた。
「本当について来るつもりかい」
「そうよ。ねぇ、この神殿が造られたのは何百年前なのかしら。時代がわかれば建物の中も少しは予想がつくのではない? このあたりの街の建物も、遺跡なの?」
再び地図に向き合ったナディアのために、ジャミールは街はずれから中心部までを指で辿って、神殿への道筋を指し示した。
「丘の神殿は建国時代より古いものだと言われている。ふもとの古い遺跡を使った住居には、各部族の族長やその家族が住んでいる。円周状に住居ができるだろ? 新しく街に来た人間ほど神殿から離れたところに住んでいるのさ。中心部ほど丘になっていて、街を見渡せるから」
「つまり、比較的古くから住んでる人たちが──黒の民が、この街の偉い人なの?」
「察しがいいな」
彼は頷いて神殿の周辺へと指を滑らせる。
「貴女の話を聞いて思い出したのだが、あの神殿にはかつて女神が祀られていたらしいぞ」
「女神? もしかしてそれが、ジンの正体?」
「わからん。もともと黒の民は神など信じぬ部族だ。祈りは大地へ、願いは自分で叶えるものだと。だからこの女神というのはシストゥールの古い信仰だな。おそらく砂漠越えをする旅人たちの心の拠り所だったのだろう……であれば雨か川か、水に近い神かもしれん。砂漠で水は命綱だから。自然や天災を神に見立てる国は多くある」
ナディアは彼の整った横顔から目が離せなかった。彼はたくさんのことをナディアに語ってくれる。本では読んだことのないさまざまな民族、知らない信仰、知らない世界──。そのどれもが興味深く、彼といるだけで自分の世界がぐっと広がっていく感じがする。
「ナディア?」
彼は無言になったナディアを覗き込んだ。気負いなく穏やかな声や瞳は、ナディアの緊張や不安を優しく包んで、どこか遠い国の物語であるかのように変えてしまう。それは吟遊詩人の冒険譚よりずっと臨場感があって、恐れたり、心惹かれたりと忙しい──。
「あの……あなたって……」
とても素敵な人よね、なんて言葉にするのは今さら恥ずかしい。こんな風に期待を込めて見つめられたら、なおさら。
「えっと……、あの、貴方は……見た目以上にずっと博識なのね」
ジャミールは目を瞬いて、それから笑って頬をかいた。
「俺がただの悪漢に見えたかい?」
「だ、だって。私を抱えたまま窓から飛び降りてしまうような人だったから……最初は少し、怖かったのよ」
「そうだな。あれも俺だし、ここにいるのも俺だ。それに奴隷だった俺に教育を受けさせてくれたのは貴女のお父上だよ」
「……私、思うのだけど……貴方が今も王宮に居たら……実はけっこう優秀な良い王子様になったんじゃないかなって」
ジャミールの腕に力が入る。くるりと体の向きを変えられて、膝の上で向き合うようにされた。額と額が合わさる。紅い瞳が間近にナディアの目を覗き込んでくる。
「ファラに何か言われた?」
ナディアは俯き、目を伏せた。
「そうね……色々と」
「あいつめ。まだ俺を王の子と見ているんだな」
「あなたを、新しいドゥーヤの王にしたいんですって」
「ははは」
ジャミールは笑って、そしてナディアを抱いたまま固い長椅子の上に倒れ込んだ。
「きゃっ」
「何も心配いらない。俺は貴女のそばにいる。それが俺の幸せだから」
彼は力強くそう言ってくれるけど。
運命というのは人の手の及ばないところにあって、彼はいつか、その大いなる流れに乗ってどこか遠くへ行ってしまうのではないか──王とは、そういう星の下に生まれるのではないか、と思う。目を伏せたナディアは夫の金の髪を撫でた。王族だけの、高貴な色を。
「……そうして。約束」
「ああ、勿論だ」
口付けは優しくナディアを宥めてくれる。
一眠りできると提案されたひと時はお互いを求め合うための時間になって、次にナディアが目覚めたとき、あたりはすっかり夜の静寂に包まれていた。
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