蝶の秘密1
『私は以前、とあるジンと契約を交わしました。以来、その類のものから力を借りられます』
「ナディアは? 彼女も、ジンと契約していると?」
『奥様につきましてはわかりません。ジャミール様の方がよくご存知では』
「そうか……ふむ、心当たりはなくもない」
「どういうこと?」
「俺の昔話になるからな。またあとで」
ジャミールにも話を整理する時間が必要なのかもしれない。気になるけれど、今は大人しく頷くことにする。
「して、この街のジンは、我らに仇なすモノか?」
『否。今日まで、そのような気配はなく。ただ、あの靄は良くない』
「傀儡の類なんでしょう?」
ナディアが言うとファラーシャは頷いて、チョークを置き目を閉じた。
(文字を書く間がもどかしいわ。話せたらいいのに)
ファラーシャもそう思っているのかもしれない。けれど、どんなに頭の中で呼びかけてみても、やはりあの時のように声は聞こえないのだった。
「その白い靄が、人形のようになったトゥアーグ族の男たちとも関係していると?」
『かもしれません』
「そのジンって、退治した方がいいの? できるの?」
『わかりかねます』
「情報が足りんな。となると、自分の目で確かめるより仕方ない」
嫌な予感がしてナディアは目を細める。
ジャミールは、盗賊王の顔でニヤリと口の端を持ち上げた。
「忍び込もう」
『私も参ります』
ファラーシャまでそんなことを言う。
「そんな、何がいるかもわからないのに!」
「だからだよ。見ないことには判断がつかん。だれかが行かねばならないのなら、俺が行くべきだ。ハーディン兄上もいないことだし」
ナディアはムッと眉を寄せた。
「ジャミール、楽しんでない……?」
「ははは、いやなに、神殿に忍び込むことをなぜ今まで考えつかなかったんだろう、とな。あそこは呼ばれた者だけしか入れない場所なんだよ。何か重大な宝が隠してあっても不思議ではない。盗む盗まんは別として、宝の気配に黙っていられる俺ではないぞ」
「そんな」
「まぁ、半分は冗談だが。忍んで中を見るくらい、別にいいだろ?」
「……危なくないのね?」
「ジジイどものいびきが響く程度だろう」
「……それなら、私も行く」
「はっ?」
決めた、と立ち上がったナディアは、ぽかんとする男たちを見下ろして腕を組んだ。
「私、あそこでなら、ファラの声が聞こえますから。あなたたち二人の通訳になります。そうしましょう、決めた。それなら準備がいるわ。動きやすい服と靴が必要だわ。それから明かりの用意と、何よりお夕飯ね。食べたらすぐ仮眠をとって、真夜中に起きましょう」
「おいおい、本気かい?」
「もちろん。さぁ行きましょう、ファラーシャ。お夕飯を作らなきゃ」
呼ばれたファラーシャは長い睫毛でぱちぱちと瞬きを繰り返し、は、とだけ口を動かした。
そう、音はなくとも、唇を読むことができればおおよその話はできるのだ。
さっきのは「はぁ」かも「は?」かもしれないけど、少なくとも「いいえ」ではなかった。勢いのままに、ナディアはファラーシャの服を引っ張って立ち上がった。
「精のつくものを用意しますね、あなた」
「俺は侵入計画を立てておこう。ファラ、そちらは頼むぞ」
「あら、私に頼むぞって言ってくださらないの?」
振り返れば、ジャミールは「ほどほどに、お嬢様」と苦笑して2人を見送った。
柱廊を吹く風はすっかり夕暮れの香りをしていた。シストゥールの風には水の気配がある。馴染みのない草っぱらの青い香りや、家畜たち生命の匂いも。
見上げた空には半分ほど欠けた未熟な月。雲は少なく、天上は赤と紫のおごそかな
美しいけれど、なんとなく不吉にも見える色だ。ナディアはファラーシャの服を引っ張って足早に歩いた。
かまどの中を覗き込んだナディアは満足げに頷いた。
「お菓子を作った余熱であたたかかいわ。よく片付いているし、これならすぐにでも食事の支度に取りかかれそう」
『奥様は自室でお待ちください』
「何を言うの、私だって何か手伝うったら」
ナディアは手を洗おうと水瓶を覗き込んだ。
「これは使っていいの?」
『ダメ。飲み水』
「すごい、たくさん包丁があるのね! 鍋もこんなにたくさん! どれを使うの? あ、この深鍋にはカリーの匂いが残ってる。ふふふ、この匂い、好きだわ」
『奥様』
「わぁすごいっ、新鮮な野菜がこんなに? 採れたてが手に入るなんて素敵ね。煮込む時間はなさそうだから、玉ねぎは……生でも良さそうだけど、苦いのは苦手。ジャミールに好き嫌いはあるのかしら。ラムの塊肉は焼けばいいわよね。あ、何より火よ、火。ファラーシャ、火はどうするの?」
『奥様』
はぁ、とファラーシャがわかりやすくため息をつく。ナディアは手を止め、作業台に置かれた黒板を凝視した。余白にファラーシャの苛立ちがあらわれている気がした。
「……ごめんなさい。何かしてないと、色んなことが気になってしまって」
ナディアは厨の隅っこに置いてある椅子に座って膝を抱えた。
「ここにいてはいけない? ジャミールの部屋だと、彼の邪魔になるでしょう?」
2人だけの厨房はしんと静まり返っている。ファラーシャは何も言わない。そこが良いのかもしれないと思い始めている。なんと言っても、彼とナディアは、同類でもあるし。この街の、弾かれ者。疎まれ者。2人とも表面上はそんなこと気にしていない風なところも、一緒。
──でも。
ナディアは、ファラーシャが羨ましい。
(だってジャミールは、ファラを信頼してるみたいだし。でも私は、夫のためになることを何もできない……それどころか、彼の評判を貶めている。だから)
神殿に侵入する案に飛びついた。
神殿にいるかもしれない
悪戯好きで、自由自在に姿を変えて人間に悪さをする小悪党は、ドゥーヤ人にとってただの物語の登場人物ではない。
オアシスの水辺にひそんで旅人から盗みをしたり悪さをするジンは身近で、聖水や護符で退治できる。退治専門の祈祷師だっているくらいだ。
もっともっと力の強い特殊なジンもいる。ドゥーヤの王宮には巨大な魔力を持つ建国の精霊が今でも王に付き従っているという唄があるのだ。たぶん、作り話なんだろうけど。
(シストゥールのジンを退治したことがうまく街の人々に広まれば、私のことを受け入れてもらえるかもしれないし……これぐらいしか、今すぐ街の人に自分を認めてもらえそうなことが思いつかない。だから失敗はできないってこと。でも大丈夫よね。盗賊王とお供の呪い師ファラーシャが一緒だもの。ふふふ、吟遊詩人の語る冒険譚みたいだわ)
『聞こえているぞ。まったく、奥方の声は、俺には強すぎる』
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