最終話 ただいま
ナディア達がシストゥールに戻って、五か月がたったある日。
季節は乾季の真っただ中、空は眩しいほどの快晴。
(ジャミール、無事にランプを手放せたかしら……)
ナディアはふらふらしながらなんとか寝椅子までたどり着くと、倒れるようにして座り込んだ。
そうしているとすぐに眠気が襲ってきて、うとうとと船をこぎだしてしまう。
ここ最近は、ほとんどこうなのだ。どうにも調子が出ない。
目を閉じたまま嘆息する。
ジャミールが白馬アリラトに乗って旅立ってから、今日で三日目。そろそろ帰ってきてもおかしくない頃合いだ。
精霊たちは実にのんびりとシストゥール観光を楽しんだ。もともと人間とは違う寿命を生きる彼らにとって、数ヶ月など瞬きに等しい時間であるらしい。
痺れを切らしたジャミールにせかされ、彼らは火山のふもとにお気に入りの場所を見つけた。それからも、やれ星の位置がどうだ月の満ち欠けがどうだと注文をつけ、ようやく別れの日取りを決めたのが四日前。
早速、ジャミールがそこまでランプを運ぶことになった。
もちろん、ナディアもついて行くつもりだったのだが。
「寝ていたほうがいいだろう」
体調を崩し気味なナディアを見て、ジャミールは渋い顔をした。新しい環境に慣れ始めたところで、疲れがでたのだろうと。
「今年は暑いしなぁ。荒野じゃ日差しを遮るものもないし、ずっとアリラトに乗りっぱなしになるだろうし」
「そうよね……とても残念だけど、家で待っているわ」
「ああ。あなたの描いてくれた地図があるから、精霊の声が聞こえない俺ひとりでもなんとかなるだろう。ま、多少違う場所に置き去りにしてしまっても、自分たちでなんとかしろって言ってやれ」
寂しくなるだろうと思っていたけれど、精霊たちは実にあっさりとナディアに別れを告げた。
『もう会うことはないだろう、乙女』
「まぁ、そんな言い方。薄情だわ」
『それでいいのだ。人は我々に、
『さよなら、乙女。あなたはナハルの次に特別な人間だけど、でも私たちのことは忘れてちょうだいね。それがあなたのためよ』
精霊たちはわかっていたのだ。たとえばナディアが過去を夢に視たように、強すぎる力は人の理を侵してしまうと。
ナディアは黄金のランプにそっと口づけて囁いた。
「覚えているくらい、許してちょうだい。物語みたいな素敵な出会いだった。私、小さい頃からあなたたちに憧れていたんだから」
ランプは震えて、そしてそれ以上は何も言わなくなった。
馬の
(あっ、忘れるところだった!)
途中で寝室に引き返して、
「ジャミール! おかえりなさい!」
「ああ、ただいま。ちょっと待っていてくれ」
愛馬をねぎらったあと、ジャミールは荷物を担いでナディアの元に駆けてきた。
「砂で汚れているから、先に着替えるよ」
「いいのに。ね、どうだった?」
「ああ、良い場所だったよ。水辺も近くて、緑もあって。奴らは来るなと言いそうだが、いつか遠駆けに行こう。眺めも良かった」
「素敵ね。……あの、ジャミール?」
ナディアは胸に抱えていたものを、そっと夫に差し出した。
「なんだ? 手紙か?」
「そう。あなたがいない間に書いたの。ね、覚えてる? ここに私が来たばかりのころ……約束したでしょう。盗賊王ジャミール宛てではなくて、いつか夫への手紙を書くわ、って」
「ああ! 覚えているさ。まだ残ってるぞ、あなたの手紙」
「よかった。私だけが覚えてたんじゃ、意味ないもの」
はい、と差し出したそれを、ジャミールはにこやかに受け取った。
「へえ? 俺がいないあいだ、寂しくて?」
「それもあるけど……ね、読んでみて」
「今?」
「すぐによ、お願い」
思わせぶりなナディアの様子を不思議そうにしながら、ジャミールはその場で羊皮紙を開いた。
「……。」
「ね、びっくりした?」
「……、……本当に?」
「うん。だから最近、体調が悪かったみたい」
「……ああ、……そうか……それで……」
呟くジャミールから、表情が抜け落ちている。肩から荷物を落として、口元を手で覆って。
「そうか。……そうか」
視線を彷徨わせ、眉を寄せて――それから、ゆっくりナディアに向き合うと、力をこめずにそっと抱きしめた。
「ジャミール?」
「……情けない。こんな時に、なんて言ったらいいか、わからないなんて」
「喜んでくれた?」
「ああ。……そうだな、そうだ。ありがとう。ありがとう、だ」
ジャミールはそう言ってナディアの肩に頭をのせた。
「ありがとう、ナディア」
ジャミールの吐息が震えている。ナディアもつられそうになって、急いで空を見上げた。
「ううん、私もまだ実感がなくて……でも、長旅は……しばらくは、できないのかなぁ。でもいつか、三人で行きましょう?」
「ああ……」
「三人じゃなくてもいいの。四人でも、五人でも、もっとたくさんでも」
「ああ、そうだな」
「それで、それで、……その子たちが、立派にみんな巣立ったら。私たち、また二人で旅をするの」
ナディアは、太陽に輝く夫の髪を優しく撫で続けた。
「私、海が見てみたい。それから、父と母にも会いたいし」
「もちろんだ」
「それでね。いつか……いつかは、王宮の近くにも行ってみない? 会いたい人たちがいるの。それから、モブタザルにだって行ってみたいし」
「ああ。あなたが望むなら、どこにだって」
「約束よ」
風が二人を優しく撫でる。
その風は山を越え、砂漠を越え、海をも越えて、まだ見ぬ世界を駆け巡る。
「ねえジャミール……私、幸せだわ。こんなふうになれるなんて、あなたに攫われたあの日は、思ってなかったのよ」
ありがとう。ただいま。おかえりなさい。
彼と過ごす日常はこんなにも輝きにあふれる。
あの日、自由に焦がれてひとり夜空を見上げていた少女は今、晴れた空の下、最愛の夫と見つめ合って微笑んでいる。
(了)
千一夜精霊譚 攫われた花嫁は黄金の王子と暁を駆ける 絵鳩みのり @tsumugi_konbara
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