おかえり
空飛ぶ絨毯は、どんな鳥よりも速く空を駆けた。
ジャミールの屋敷の中庭に絨毯がひらり舞い降りる。地上に着くのも待てないというように、ジャミールはナディアを抱えて絨毯を飛び降りた。
その拍子にランプが転がり落ちて、土の上をころころと転がってゆく。蓋が開いて、しゅうしゅうと煙が漏れだした。
「あっ、ランプが」
「いいさ、やつらも好きにしたいだろうし」
ジャミールの言う通り、もとの姿にもどった
『ええ、ええ。ここまで来れば充分ね。それじゃ、私達はこのあたりを観光してくるから。そうね、2日くらいは戻らないかも。ね、あなた』
『このあいだは、あまり楽しめなかったからな。俺の壊したあの神殿もどうなっているやら』
『そんなのは人間にまかせて、私たちは私たちで、好きにしましょうよ』
『まぁ、それもそうだな。人には人の営みがある。ではな、乙女よ』
炎と水のジンは、絡まりあいながら再び空へと消えていった。
「やつら、なんだって?」
「……2日くらい、戻る気はないみたい」
「ふぅん、意外と気が利くな」
ナディアを抱えたまま、ジャミールは大股で柱廊を進んだ。あいかわらずこの屋敷は人の気配がなく、あの後宮に比べたらずっとずっと静かだ。
やっと、本当に二人きりだと実感する。
「ただいま。我が家だ」
寝室まで来ると、ジャミールはナディアをおろして、ぐっと伸びをした。
「はぁ。こんなに長い旅になるとは、あの晩は想像もしていなかったなぁ」
「そうね……ちょっとだけ神殿の様子を見に行こうって話だったのよね。あなたもファラーシャも、夜中に私を置いて行って」
「ははは。もうしないよ」
おいでと手で呼ばれて、ナディアは寝台の端、ジャミールの隣に腰掛けた。
ジャミールはターバンをほどき、ぽいぽいと靴を脱ぎ捨て寝台の上にのぼる。
ナディアはその隙に、風をあびて乱れた髪をこそこそと整えた。
(私、今ちゃんと綺麗かしら……鏡、鏡は……)
やっと帰ってきた自分の家なのに、くつろぐどころか緊張してしまっている。
(そ、そうだわ、こんな綺麗な服を着ているからかしら……なんだか私のほうが浮いてるっていうか……まだ、帰ってきた実感がないっていうか……)
たくさんの装飾が縫い付けられた
「脱ぐ?」
きつい胸元を気にしていると、ジャミールが背後からそう言った。いつのまにか、彼はもう上半身の服を脱いで、男らしく引き締まった肢体をさらしている。
真昼の明るさのなかでは、何もかもがよく見えすぎてしまう。ナディアは慌てて彼の身体から目をそらした。
「そ、そうね、着替えようかな」
「良く似合っているが。でもたしかに、この装飾じゃ、俺も気になるし」
「気になるって、どこが?」
「汚したらまずいだろうなぁと」
背後から髪をほどかれたのがわかる。ナディアの頬をほつれた髪がふわりと覆う。繊細な髪飾りはすでに彼の手の中にあって、波打つ髪を整えるように優しく頭を撫でられている。ゆっくりとした手つきが、とてもきもちいい。
「おいおい、寝るなよ?」
ジャミールは笑って、後ろからナディアを抱きしめた。耳元に吐息がかかってくすぐったい。はぁ、と息をついて、ナディアはうずく身体の熱をなんとか逃した。
「ジャミール、あの……」
「ん?」
「ほんとに……む、無茶苦茶に、する……?」
聞こえるのは彼の吐息だけ。笑った気配がする。
「耳、真っ赤だ」
「だって……」
ジャミールの唇はうなじを撫でて、イヤリングの光る耳朶にたどりつく。
「貴女の嫌がることはしない。ここでは俺たちは対等で、夫婦だ」
ナディアは小さく頷いた。
「あなたが好きだよ、ナディア」
夫の愛を拒む理由なんてどこにもない。
「もし、もしも、よ」
寝台の上でぴったりと寄り添いあったまま、ナディアは神妙に囁いた。
「もし、子を授かるなら、男の子と女の子と、どっちがいい?」
ジャミールは「うーん」と眉を寄せてしばらく考え込む。
「そりゃ、どっちでも嬉しいだろうさ」
「模範解答だわ」
「そうか? しかし、子ども、子どもかぁ……」
ぼんやりと呟くジャミールも、ナディアの腹に手を添えた。
「……あなたを攫いに行くときに、俺は」
「うん」
「もちろん、妻を幸せにできる良い夫になろうと思っていた。……けど、良い父になれるかどうかは、正直あまり自信がない」
ナディアはハッとして顔をあげる。不安げなジャミールの手を握って、胸に抱く。
「大丈夫よ」
「……そうかな」
「だってあなたはあなたのお父様とは違うし、私もアマーナ様とは違うし」
「ああ、その通りだ」
「私だって、初めてだもの。わからないけど……ううん、みんなそうよね。初めて夫婦になって、初めて親になって……」
慌ただしく結婚して、こんなにも人を愛することになるなんて、予想もしていなかった。恋も、愛も、彼と一緒に嵐のようにやってきて、ナディアの人生をガラリと変えた。だからきっと、この先もそう。
「一人なら無理かも。でも、あなたとなら……何にでもなれるし、どこへでもいけるわ」
そうでしょうと、ナディアは微笑んだ。
「たのしみ。……私、家族は賑やかなのがいい。みんなで一緒に食卓を囲むの。素敵よね」
「ああ、いいな」
ジャミールも笑う。
──笑うと寄る目元のしわ、やっぱり好き。
感情のままにまぶたにキスする。戯れのつもりだったのに、いつしかそれは深い口づけに変わって。脚を絡ませ合って、寝台の上を転がる。
さっきはもしも、と言ったけど。
(私は、ずっと二人きりでも、全然かまわないのよ)
夫に恋するナディアは、その秘密をこっそり胸の中にしまった。
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