千一夜精霊譚 攫われた花嫁は黄金の王子と暁を駆ける

絵鳩みのり

第一章

砂漠の盗賊王

嘆きの花嫁

 その晩、生まれに秘密をもつ盗賊は、荒涼の砂漠を馬で駆けた。


 あわれな花嫁は窓辺に立ってひとり深いため息をつき

 声を失った神官は瞑想をやめ、瞼をあげた。


 ――星がめぐる。

 運命という名の星が、いま。



***



 煌々と燃える炎が、砂漠の夜空の一角を明るく染めあげている。

 オアシスに沿って広がるドゥーヤ族の街。

 その中心にある広場では今宵、篝火が焚かれ、旅の楽団が宴を盛り上げんと奮闘している。

 祝いに訪れた者には酒が振る舞われ、皆で夜を踊り明かすのが、ナディアの生まれ育ったこの街に伝わる婚礼の慣習だ。


 日が落ちて急速に冷え始めた風にのって、ナディアのいる太守の館にまで宴のさんざめきが聞こえてくる。楽団の奏でるメロディーは花嫁の気持ちなんて御構い無しに陽気だ。


 新婦のための離れでは、年嵩の侍女たちが淡々と花嫁ナディアを飾りつけていった。みな、無感情に手早く。

 むしろそれがありがたかった。優しく声をかけられたら、みっともなく泣き喚いてしまったかもしれない。今はただ早くひとりになりたかった。


「……それでは、太守様がいらっしゃるまで、お待ちください」


 侍女たちが下がると離れ家にはナディアだけが取り残された。

 これからここで、夫婦2人だけの儀式が執り行われる。

 真紅の花弁を散らした寝台しかない部屋で、あのおぞましい男に身を捧げるためだけにナディアはここにいる。濃すぎる花の芳香で頭がおかしくなりそうだ。香りだけではない。全てがあの男のために──残虐非道な太守サルタンが喜ぶように趣向が凝らされている。

 日に焼けた肌を一段と艶めかしく引き立てるよう香油を塗りこまれ、白く透ける花嫁衣装を身に纏い。なにより異常なのは、家畜のごとき首輪と手首を縛る金の鎖。身動きするたびにシャリシャリと音をたてる鎖は冷えた心をさらに惨めな気持ちにさせた。夫となる男の悪趣味を身をもって味わってなお、ただただ身を縮めて震えるしかできないなんて。


(気持ち悪い、こんなの、本当にいや! 耐えられないわ……!)


 しかしこうして身悶えている間にも、命の導火線はじりじりと短くなっている。婚約者を待つこのわずかな時間が、運命を変えることのできる最後のチャンスだった。


 魔除けの花弁を散らした寝台を横目に通り過ぎ、窓の外を窺う。夕闇を駆け巡るそよ風が、花嫁の面紗ヴェールを舞い上げる。


 中庭を臨む窓は大きく開け放たれているが、これでは外に何もかも丸見え、丸聞こえ。もしやそれ・・すらも意図されたものならば、趣味が良すぎて吐き気がする。

 警備の兵の姿は見えない。けれど、腐っても太守の館、一人もいないなんてことはないだろう……何処に潜んでいるのだろう。


──あわよくば。

 大きく息を吸い込んで、見上げた満点の夜空。月は細く頼りない。

──この暗さなら。

 窓枠をぐっと握りしめる。と、手首を不自由に縛る鎖が痛みを与えてくる。唇を噛んで視線を落とす。このままここにいたら、無惨に処女おとめと命を散らすだけ。

(けれど、私が逃げたら)

 閉じた瞼の暗闇に、父と母の優しい顔が目に浮かぶ。

 あの男は弱者をいたぶるのが大好きなのだ。花嫁が逃げればきっと、かわりに最も惨たらしい方法で、両親が。


(──ああもう、……おしまい……)


 うなだれて窓枠に寄りかかるのと同時に。

 『それ』は、窓枠のちょうど真下に立っていた。

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