街と鐘と白い靄2
「瞳というのは、あまりに雄弁だ。羨望、好奇、驚嘆、嫉妬、軽蔑、疑惑、嫌悪に失望……言葉にしなくても、目が語る。女でも男でも、美しすぎるというのは困りものだよなぁ」
人をうらやましいと思う心は、実はとても扱いが難しい。羨望は妬みに変わるからだ。ドゥーヤではその視線を嫉視と呼ぶ。強い嫉視は人を呪いさえする。そうなればもはや邪視だ。
つまり、
「声が出れば、他にやりようもあるのだがな」
ジャミールが静かに呟いた。
「ファラの場合、危険が迫っても逃げるしか手がない。女の姿で油断させたり気配を隠すというのも、一つの防衛手段というわけだ」
「声を失ったのは、なぜ?」
「…………喉を、切られている。仕えていた王に。あいつが常に首を隠すのはそのせいだ」
ファラーシャの王というのはジャミールの父で、そしてナディアにとっての義理の父でもある。言葉を失うナディアに、ジャミールは神妙に首肯した。
「結婚前、貴女に自分の父について語ることを、俺はためらった。ドゥーヤ人にとっては偉大な国王かもしれないが、俺にとっては──恐ろしいだけの男だ。おぞましいものだ。この身にそのような血が流れているなど。どれほど俺が
鐘が鳴る。異教徒の信仰だという、神殿の鐘が。空気を震わせ、風に乗って街中をかけめぐる、重い金属音。
住民たちは動きをとめ、ぼんやりと空を見上げているようだった。ふと時がとまったみたいに一様に虚ろな目をして空を──神殿を、だろうか。ぼんやりと見上げている。
(さっきまであんなに賑やかだったのに、なんだか、不気味ね……)
空気は暑いくらいなのに身震いして、ナディアはかたわらのカーラをうかがった。彼女もぼんやりとして、街の人々と同じような雰囲気で立ち尽くしている。ジャミールは前を向いていて、表情はナディアには見えない。
その中でただ一人、皆と違った動きをしたのはファラーシャだ。ナディアが困惑しているのに気づき、駱駝の轡を放って、大股でこちらへやってくる。その表情がどうも普通ではない。驚き、それとも焦りか、ひどい形相だ。
驚くナディアに向かって彼は何か言いかけ、喉を押さえて激しく咳きこんだ。
「だ、大丈夫? 無理しなくていいのよ。喉、平気なの?」
涙目のファラーシャは、何かを追い払うかのような手の仕草をした。不審に思ったナディアが身を起こすと、あたりに見慣れぬ、薄白い靄のようなものが忍び寄ってくるのに気づいた。
(な、なに……? 甘い匂い……煙……?)
それは目の前のジャミールのあたりにも漂い始めている。カーラはといえば、靄に絡みとられるように、足元から腰あたりまで真っ白だった。
「ひっ……!?」
おののいて背を反らす。駱駝のこぶのおかげで辛うじて落ちはしないものの、冷や汗が背を伝う。そうしている間にも、自分たちの周りに、どこからともなく甘い香りのする白い靄が集まってくる。
(これ、なに!? どこから……空? いいえ、丘の上? あそこは……神殿……?)
かたわらのファラーシャが、こちらを見上げている。なにかを伝えようと、懸命に口を動かしている。
『お前、急ぎその手で触れろ。主に』
「えっ?」
頭の中に、声が響く。ぼわんぼわんと、輪郭の定まらない声。男のような、女のような、子どものような大人のような。鐘のように頭に鳴り響き続ける。
『
迫真の表情でこちらを睨みつけるファラーシャに気圧され、ナディアは声に導かれるがまま、おずおずと手のひらをジャミールの背に当てた。
ただ、言われたとおりに、当てただけだ。
その瞬間、ただよう甘い匂いと白煙は霧散した。ジャミールはいつもの様子で「ん?」とこちらを振り返った。
「どうした?」
「えっ!? い、いえ、なにも?」
靄が、晴れた。ナディアの触れたところから立ち消えていく。広場にはざわめきが戻り、風は穏やかに吹き抜ける。何事もなかったかのように時が動き出す。
「そ、そうだ、カーラ」
「はいはい? その建物が集会場です。じゃあね、ジャミ。なんだか今日は暑いわね、寄り道はほどほどに、早く帰った方がよさそう」
「ああ、頼んだぞ。ではな、ナディア。早く帰るよ」
「あっ、ジャミール……」
行ってしまう。
ひらりと地上に降り立つジャミールに手を伸ばすが、それを遮ったのはファラーシャだった。
『奥方、主を引き留めてはならない。俺たちが勘付いたとその女
頭の中で鐘のように響いていた声の輪郭が、しだいにはっきりしてくる。多少くぐもってはいるが、若くやわらかな男の声。これはファラーシャの声なのか。
(女
面紗のすき間から鋭い視線を寄越すファラーシャに、ナディアは心の中で語りかけた。こうすると彼と会話ができるようだと気がついた。
『お前は感じないのか?』
(何も。ねぇあの靄は何? どうして消えたの? あれは悪いモノ?)
『恐らく。肌にまとわりつくあの重さ、あまりに蠱惑的なあの匂い。俺の知る限り、傀儡のまじないの類だ』
ファラーシャの言葉をどれほど信じていいのかわからない。けれどたしかに、あの靄は異様な執着でカーラの全身に纏わりついていた。カーラだけでなく、街の人々をも同様に包みこんで。
(でも私には近づいてこなかったわ。それからファラーシャにも。なぜかしら……)
去って行くジャミールを呼び止めたかった。心細く、縋りたかった。雑踏の中でも一番に輝く、太陽のような人。
「あなた!」
振り返った彼は、朗らかな笑みで手を振り、何度かこちらを振り返りつつ、仲間の待つ建物に駆けて行った。
「さて、私たちも行きましょうか」
いつまでもジャミールの背を見送っているナディアを促して、カーラが駱駝の手綱を引く。気難しい獣は荒っぽく鼻息を吐き、足踏みをして抵抗する。
それを宥めるようにファラーシャが口元を撫でてやり、大人しくなったところでカーラの手から手綱を奪い取った。
『お前はついてくるな。よくよく嗅げば、さてはお前、憑かれているな? どうりで最近、屋敷周辺にまで嫌な気配がすると思ったんだ』
「ちょっとファラーシャ、私の頭の中で叫ぶのはよして……っ」
「何? なんですか?」
「あっ、い、いえ、……ありがとうカーラ! 疲れたから、今日はこのまま帰ろうかしら」
「そうですか? これから神殿にでもお連れしようかと思ったんですが……ではまたの機会に」
「ええ、そうしてくれる? じゃあね、カーラ」
なぜかファラーシャの声はナディアにだけしか聞こえないらしい。それについて説明を求めようにも、澄ました青年はこちらを向くことがない。
(たしかに疲れた……わからないことだらけって、いや。不安だし、落ち着かない!)
今日街に出た、たったこれだけの時間で、考えるべきことが多すぎた。
少女の歯を食いしばった泣き顔、申し訳なさそうなジャミールの微笑み。甘い香りのする白い靄、夢の中にいるような住民たち。そして自分だけに聞こえるファラーシャの声。どれも衝撃的すぎて混乱している。
(あの靄がファラーシャの言う通り、悪いモノだとして……街の人やカーラに何をしようとしているのかしら……神殿の中に何がある? ジャミールはこのことを知っている? あの様子だと、まったく知らないのではないかしら……)
駱駝の短い毛を撫でながらとりとめもなく考えを巡らしているうちに視界に入った自分の手──花嫁の護符に気づいたナディアは目を見開く。
(ジン避けの紋。そっか! これで触れたから、あの靄は消えたんだわ!)
つまり、あの靄は
ナディアはがばりと頭を上げた。
「ファラーシャ! 貴方の知ってることを教えて。ぜんぶ……全部よ!」
ナディアの唐突な叫び声に、黒い蝶は盛大にため息をつき──、それから、ゆっくりと首肯した。
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