地下水路1

(……──さむい……)


 身体をぶるりと震わせ、ナディアは意識を取り戻した。


(──ここ、は……?)


 目が覚めたのに、薄暗い闇の中にいる。

 濃く、重い、しっとりした空気。それが水のにおいだと気づくのに、少々時間を要した。こんなにも濃い水の気配は、オアシスの民であるナディアですら初めてだったからだ。

 冷えと痛みに悲鳴をあげる体をなんとか起こしてあたりを見渡す。天井は高い。薄暗く、広い空間にざぁざぁと水音が反響している。


(この音、水の流れる音だったの……ここ、もしかして地下水路カナート……?)


 そう理解できたのは、絶え間ない水音と、等間隔で地上から降り注ぐ光の柱のおかげだ。


(光は真上から……良かった、まだ昼。そんなに長く気を失ってたわけじゃないってことね)


 岩をくり抜いた洞窟が、先も見えないほどに延々と続いている。

 水は、切り出した石を積んで舗装してある水路に流れている。水量は多く、勢いよく水路にぶつかっては涼やかな飛沫をあげる。

 ナディアが倒れていたのは、水路と並行する細い通路のような場所だ。


 いくらお転婆な少女だったといえ、さすがに地下に落っこちたことはない。地下水路がこんなにもしっかりした造りだとは知らなかった。


(すごいわ、まるで地中の宮殿ね……)


 くしゅんとくしゃみが出た。

 濡れた服が全身にずっしりと貼りついている。借り物の女官服は破れさえしていないものの、酷いありさまだ。


(あっ、そうだ、本……、本は!?)


 ハッとして腹部を探れば、まじないの本はちゃんと離さずに持っている。ひとまず安堵して、ナディアは再びあたりを見渡した。


 地下水路カナートは、水の蒸発を防ぎながら長距離に渡って水を運ぶための砂漠の民の知恵である。母井戸から出口まではゆるやかな傾斜がついていて、つまりこの水路に従って下流へ行けば、いずれは出口──城下町につくはずなのだ。


 地上からの縦穴は、ナディアの身長の何倍も高い天井にある。どうやっても這いあがれそうもないから、進むとしたらこの水路しかない。


(……どっちに進もう)


 上流か、下流か。

 どちらの選択も、賭けに思える。


 ほとんど消えかけているジン避けの紋が、これが最後とばかりに警告を送ってくる。水に近づくほどに、ぴりぴりと痛む腕。

 水に沈む直前、水面に映っていたのはカーラだった。ジンニーヤに取り憑かれた彼女が、ナディアを引きずり込んだということだろうか。


 つまり、ここはもう彼女・・の領域なのだ。どんな理由でナディアとの接触を試みたのかはわからないけれど、これは好機チャンスなのではないか。

 

(わざわざこんなところに呼びつけたのだから、よっぽど私に用があるんだわ。幸運よ、探す手間が省けたじゃない。カーラからジンニーヤを引き剥がせば、目的の半分は果たしたことになるんだし。うまくいけばシムーンだって呼び出せるかもしれない)


 ナディアは冷えた身体をさすりながら、じっと考え込んだ。


(……けど……問題は。まだ私が、この本のことを何にも思い出せていないってこと!)


 寒さのせいではなく身震いしてしまう。自分一人で、得体の知れない魔神ジンと対面することになるかもしれない。無意識に片耳のイヤリングに触れる。こういうとき、盗賊王ジャミールならどうするだろう。


 けれど、長く悩んでいられる時間は無いようだった。

 ナディアはすぐに、この地下水路の異変に気がついてしまった。

 先ほどから、水路の水が異常に増え続けている。このままでは、ナディアのいる通路にまであふれた水が押し寄せてくるだろう。


(ああ、ほら! やっぱり! どこかで見てるんだわ、水のジン!)


 この増水ではきっと、下流に走ったとしても出口にたどり着くまではもたないだろう。濁流に飲み込まれたらひとたまりもない。ナディアは泳げないのだ。


(……ああ、どっちに行くのも怖いけど……!)


 ナディアは顔をあげた。水音がざっと強まった気がする。


(逃げたってしょうがない! 立ち向かえば、できることもあるはずだわ)


 目指すは、上流。

 水源にいるはずの女魔神ジンニーヤに会うのだ。


§


 走る。

 足は、恐怖に追いつかれないために動く。

 足元まで迫る水をばしゃばしゃと踏みつけながら、ナディアは通路を足早に進みつづけた。


(……変ね)


 はじめは、地下だからと、そう思っていたけど。


 走れども走れども、景色が変わらない。たとえばこの岩壁の模様。さっきも見たような気がする。ちょっと林檎に似てるなぁなんて思ったんだから、絶対見た。


(やっぱり変だわ! ぐるぐる同じところを回ってるみたい。まっすぐの、一本道なのに! 穴から降る光の向きもまったく変わらないし……時間の感覚がないわ。歩かせて、疲弊させるつもりなの? 私のことを試してるの?)


 薄暗い地下は怖い。何が待っているかわからない先に進むのだっておそろしい。

 けれど、逃げない。

 ──進むしかない!


 濡れそぼった髪をかきあげ、じっとりした濃い水のにおいをたっぷり吸い込む。暗い通路の先に向かって、声を張り上げる。


「私は、来たわ! 私を呼んだ、あなたはどこなの!」


 それが合図であるかのように、目の前の水が急に勢いを増しはじめた。水は盛り上がり、ごうごうとしぶきをあげる瀑布になって、天井の高さくらいまで吹き上がる。


(な、なに!?)


 やがて水は、勢いをおさめながら二股に分かれ、透明な天幕のようにナディアの前に降り注ぐ。それをくぐった先に、広々とした空間があるようだ。


 それは、この地下水路のはじまり。

 ドゥーヤ国のみずがめ、その水源は、広々としたドーム状の空間にあった。

 青い輝きに惹きつけられるように、ナディアはおそるおそる水のカーテンをくぐる。


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