ふたつのランプ2

 カミリヤが振るった火打ち石から松明へと火がともされる。真っ暗闇だった視界が炎に照らされて、お互いの顔がぼんやりと浮かび上がる。


「怖くはないか?」

「ええ、もちろん」

「ならこのまま進もう」


 ジャミールに手を引かれて侵入した霊廟は、大きな箱のような建物だった。地上にある空間の大半は、礼拝用の祭壇であるらしい。

 中に入ってみると、意外なほど空気が澄んでいた。


(夜の霊廟なんて、もっと気味悪いものかと思ったのに)


 同じことを皆が考えたらしい。足を止め暗闇にじっと目をこらしても、感じるのは不思議と落ち着く居心地の良い静寂ばかり。


「……なんだか、以前と雰囲気が違いますね」


 松明を高く掲げたカミリヤが、慎重に辺りを見回しながら呟いた。


「ここはもっと……、なんと言うか、重苦しい場所だった気がするのですが」

『だとすればそれは、乙女のおかげでしょう』


 精霊のランプがカタカタと揺れる。ナディアはランプに顔を近づけて囁いた。


「なぁに、ジンニーヤ?」

『あなたが、ここの怨念を解放してくれたから』

「私?」

『そう。ドゥーヤの水源は、ちょうどこの霊廟の地下にあるの。私が流せども流せども、あの妄執の黒い靄は消えることがなかった。私自身、何百年もの孤独のあいだにいつしか我を見失い、建国の守護者としてでは無く、呪者としてこの身を捧げていたのです。……それでは神託も歪むというもの』


 ナディアは言葉をなくして、しばしのあいだ立ち尽くした。


「……やっぱり私、なんとしてもあなたをシムーンに会わせてあげたいと思う」

『乙女……』


 再び静かになったランプを抱いて、ナディアは小走りに仲間に追いついた。


「シムーンのランプは、祭壇にあるはずです。初代ナハル王と、建国のジンを模した壁画のあたりに……」


 カーラに先導され、足音を忍ばせ祭壇へ向かう。裏口からはそれほど遠くない壁ぎわに、儀礼用の布を被せた祭壇がある。


「何もないわね……ハーディン、……聞こえる? どこにいるの?」


 カーラの震える声に応えるものはいない。ため息も闇に吸い込まれてしまう。

 ジャミールは、ナディアの手を引き傍に引き寄せて言った。


「あなたは感じないか? ジンと対話できるあなたなら気配がわかると思うのだが」

「わかった。やってみる」


 霊廟のなかの、無限に続くような暗闇と静寂。そこからさらに暗いところに潜るような気持ちで目を閉じ、心の中で語りかける。


(──シムーン。応えて。あなたの妻が、あなたに会いたがっている。……私も、あなたに会いたいの。私たち、以前にも会ったことがあるのでしょう? 話をしましょう)


 仲間たちが固唾を飲んで見守っている気配がする。

 ジジッと芯を焼いて、松明の火が揺れる。風向きが変わったのかと思えば、空を割るいかずちのような、大地を這う大蛇の悲鳴のような轟音をあげて、鉄扉が開いた。

 真っ暗だった霊廟の中に、青白い光が細長く差し込んでくる。ジャミールがすかさずナディアを背後に庇って、光に向かって短剣を抜く。


『──まったく』


 力強くジャミールに引き寄せられても、視線は縫いつけられたようにそれから離れなかった。


『奥方の声は、俺には響きすぎる』


 直接ナディアの頭に響く声。いつかもそんなふうに言っていた。

 彼の纏う白い衣は、月の光をはじいて輪郭を淡く輝かせている。まさしく、神の御使いのように。


「……ファラーシャ……?」

「ファラですって?」


 ナディアの呟きを拾ったカーラが、月光の中の人を不審げに睨みつけた。


 ファラーシャは、重たげな神官服の袖を持ちあげ腕を広げた。

 彼の振るう指先が、銀に輝く鱗粉のような軌跡を描いて次々に吊り灯篭に火を灯す。

 霊廟の中は神々しいほどに光をたたえた。眩しさに目がくらむ。


「な、なによ……あいつ、なにするつもり?」


 困惑するカーラを背にかばい、カミリヤが前に出る。


「ファラーシャ様」

『カミリヤか。そこで何をしている。お前の役目は、北の宮の姫の監視だろうに』


 カーラは怪訝な顔で辺りを見渡した。


「ねぇこれ、もしかしてあいつの声?」

「カーラ、聞こえるの?」

「お嬢様も?」

「ええ、私は最初から。たぶんファラの声は、ジンにゆかりのある者には聞こえるのかも」


 ナディアは、ジャミールの呪いを解くためにその身をシムーンに捧げたことがある。カーラも、ジンニーヤの依代になった今だから聞こえるのだろうか。


「ファラ、ハーディンを知らないか」

『……ジャミール様』

「シムーンの依代となっていた男のことだ。シムーンのランプはここにあるのではないのか?」


 けれど、ジャミールは違う。彼にはジンの声も、ファラーシャの声も聞こえない。それでもジャミールは、ファラーシャと難無く会話をする。彼らにとってはきっと、声の有無など障害ではないのだ。お互いが違う道を選んだ、今でも。


『……シムーンなら、ここに』


 袖口から取り出した、黄金のランプ。ジンニーヤのそれとは違って、重たげな鎖でがんじがらめにされている。

 ジンニーヤと、カーラが同時に叫んだ。


「その人を返して!」

『やはり、解き放たれていたか、水の精霊よ』


 彼を説得しなければ、ナディアたちに自由はない。

 抱えていたランプが揺れる。今にも中身が飛び出しそうなほど激しく振動して、目の前の男を説き伏せようと奮闘している。


『若き神官殿。もはや私は、自由なのです。そなたやこの国とのしがらみも切れました。感じているでしょう? もう、そなたが契約を背負う必要はありません。精霊との繋がりは無駄に寿命を縮めます。命を大切になさい、人の子よ』


『──そうですか。どうりで体が軽いと思ったら』


 ファラーシャが、一歩ずつこちらへと歩み寄ってくる。


『ナディア、あなたが』


 慎重に距離をはかって、互いの表情がわかるほどの位置でファラーシャは立ち止まった。


『あなたが、このようなことを』


 赤銅色の強い視線がナディアを射抜く。

 シムーンのランプは、まだ彼の手の内にある。何とかしてあれを手に入れなくてはいけない。隙など、見当たらなくても。


「そ、そうよ。私が、しました。ドゥーヤの水源は、暗くて冷たくて、たくさんの嘆きと、哀しみがあった。あんなところにジンニーヤを繋いでいたのでしょう。もう、自由にしてあげて」


『自由……自由、か』


 怒りとも安堵ともしれない重いため息とととに、ファラーシャは瞑目した。


『なるほど、霊廟の清浄な空気。たしかに、浄化されている。嘆きも、妄執も』


 ファラーシャの姿は神聖で、霊廟という場にあっては祈りを捧げているようにも見える。


(ファラーシャ……わかって、くれた?)


 ナディアは彼の心を追うように目を閉じた。

 ジンに語りかけるときと同じ要領だ。ファラーシャの心は、すぐそこにある。

 本音を探りたくて、彼という深淵の中に飛び込んだ。


 深い、深い闇。そこに浮かんでは消える、彼の人生の一幕。たくさんの諦め、小さな幸福、深い絶望。目まぐるしく流れる物語を、ナディアは眺めている。


 すぐそばの光に見覚えがあった。明るい笑い声に惹かれるようにそれを覗きこむ。

 食卓を囲っている男女がいる。大きな口で、次々に料理を平らげて、「美味しい」と笑顔を向ける──、


(……ジャミールと、私……?)


 パチンと泡が弾けるように、それは消えた。


『見るな』


 ハッと目を開く。ファラーシャが額を押さえてうめいた。


『いつぞやの、意趣返しのつもりか。……俺の感情を、勝手に読むな』

「ファラ、あなた……」


 彼の目を通して見た光景は、あまりに美しかった。懐かしさと尊さがナディアの胸を打つ。


(……あのまま、あの屋敷で、三人で過ごすことができていたら……)


 過ごしたのは、たった数日だった。彼と話した言葉だって、ほとんどがジャミールのことばかりで。

 それでも思い出すのは、ファラーシャの心のこもった食事や丁寧な仕事ぶり、カーラと賑やかに言い合う様子。黒板に書かれた繊細な文字がどんな意地悪な言葉を紡いでも、彼のことは嫌いにはなれなかった。


(……もう、どうしても無理なの? ファラーシャ)


 目の前の男は、首を振った。


(ねえ、ファラーシャ。私たちと一緒に行きましょう。あなたも、自由に、なっていいのではなくて)


 頑なな背中に投げかける。


(王とか、国とか……あなたも、解き放たれても良いのではないの……? )


 自分たちと過ごしたあの短い日々が、彼の人生の中で、まぶしく輝く光になったのだとしたら──楽にしてやりたいと、そう思った。


『ジャミール様』


 けれど彼は、ナディアの呼びかけに背をそむけた。これ以上何も言うなとでもいうように、頭を振って。

 代わりにジャミールに向けて口を開く。


『……さきほど、王が、目を覚まされました』

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