《ゆめうつつ》

「ナディアお嬢様」


 あたたかいものに、手を握られている。

 それに強く引っ張られる感覚で、ナディアは暗闇から浮上した。


「お嬢さま!? 急に熱が下がって……? 旦那様、奥様! お嬢様が、目を!!」


 目を覚ましたナディアの周りには、医者に、両親に、使用人達が勢揃いして寝台を囲んでいた。皆、まるで死人が生き返ったみたいな騒ぎだったが、やがて誰からともなくはらはらと涙を零しだした。


「よかった、よかった、ナディア」


 母が首元に抱きついて咽び泣き、父は手を取って頬擦りをしている。

 ああよかったと、ナディアも母の背を撫でながらほっと力を抜いた。

 さっきのは、悪い夢だったんだ。父と母は、ちゃんとここにいる。


(……夢──? 本当に?)


 違う、とすぐさま心が否定する。

 逃げてはいけない。いま、懐かしい記憶の中に沈んでしまったら、きっと戻れなくなる。


(お父様、お母様……会いたいわ……抱きしめて、愛してると伝えたい……でも今、私、どうしてもやらなきゃいけないことがあるの)


 まわりのものがすべて色かたちをなくしていく。父に握られた手は、母のぬくもりは、ぼんやりと霞んでいく。

 その中で一人だけ、強い視線でナディアを射抜く者がいた。


「ジャミール」


 声をかけられた少年はびくりと肩を震わせてナディアを見た。艶を失くしたぱさぱさの金髪、ぎょろりとした紅目だけが目立つ、痩せこけて顔色の悪い少年。寝台から少し離れたところから、ナディアのことをじっと見つめている。


「ジャミール、ありがとう。たくさん呼んでくれたでしょう。おかげで目をさましたわ」


 ナディアは少年に微笑みかけた。小さいジャミールは、歯を食いしばって涙をこらえていた。


「お嬢様、俺のせいで……!」


 たぶん、これは記憶だ。ナディアが彼の呪いを解いて、目を覚ましたあの日の記憶。

 忘れてしまっていたものを、少しずつ取り戻している。命の危険にさらされた状態が似ているからなのか、いよいよ危ないと理解したからなのか。なんでもいい。

 ──間に合った。

 ナディアは寝台から身を起こした。


「ねえ、あなたの持ってるそれ、私にくれない?」


 少年は目を見開いた。まさか声をかけられるとは思っていなかったと、そんな風に戸惑ったあと、くしゃくしゃになるほど握りしめていた紙切れをナディアの手におそるおそるのせた。

 幼いナディアの文字で綴られた、魔除けの護符だった。


「ありがとう。これで……これで私、もう一回、頑張ってみる」

「お嬢様!」


 心が現実に帰ろうとしている。周りのものは蜃気楼のようにゆらめいて消えていく。父も、母も。

 ぽろりと涙を流した、幼いジャミールも。


「お嬢様、今度は、俺が助けるから! 俺は、強くなって……俺の命は、お嬢様のために」

「もう、たくさん助けてもらったのよ。あなたは強くて優しくて、とてもかっこいいの。たくさんの人に慕われて、だから」


 泣いては駄目よ。伸ばした手は透けた少年の頬には届かなかった。


「また会いましょう、ジャミール……私たち、きっと幸せになるから」


 忘れていて、ごめんね。

 これは、ちゃんとあの人に伝えよう。ナディアの心に応えるように、耳元のイヤリングがきらりと輝く。

 護符をぎゅっと握りしめて、ナディアは目を閉じた。


 戻るんだ。

 あの暗闇──嫉妬と憎悪の渦巻く、冷たい水の中へと。

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