ジャミールの求婚2
「そうかい? まぁ、そうかな。しかし俺にとって貴女はずっと、大切なお嬢様だったから。恋慕の情など、まことに罪深いことだったよ。いずれ御両親に面会が叶えば俺は旦那様に殴られるかもしれんな」
「お父様はそんなことなさらないわ」
「タヒル様は聡明で善良なドゥーヤ人だと、我々も知っている。旦那様も奥様のことも、俺は好きだったよ」
「そうだったのね……よかった。思い出したら会いたくなってきちゃったな……、
「今は無理だが、いずれ会える日が来るさ。あれだけ派手に振舞ったから、花嫁の逃亡は旦那様たちの耳にも届いているだろうし。気になるなら、今度は女盗賊として屋敷に忍び込んでみるかい?」
「まぁ! お母様がショックで倒れられてしまうかも」
「奥様は真面目だからなぁ。俺も何度叱られたことか」
何を思い出したのか、ジャミールは微笑んだまま黙って、薔薇水の入ったグラスを揺らした。
ふと訪れる沈黙は心地良く、ナディアは大きなクッションに身を持たれかけさせ、ほっとため息をついた。そのままでいると、うとうとと瞼がおりてくる。
眠たげに目を擦るナディアを見て、ジャミールは身を乗り出し、俯く顔に落ちる前髪を払ってやった。耳元で、彼の穏やかな声がする。
「少しは寝かせてやりたいんだが…………ほら、聞こえるか? カーラの足音。珍しい、元気がないな。義兄上はまだ戻られんということか」
ナディアにわかるのは、近くにある彼の息遣いと、大きく開いた窓の向こう、うっすらと薫る緑色の風のそよぎくらいだ。
「お待たせ! さぁ、忙しいわよ!」
なので、扉をノックもせず勢いよく飛び込んできたカーラを見てナディアは驚いたし、ジャミールは邪険にするように眉根を寄せて言った。
「姉上、俺たちが今、ここで睦んでいたらどうするつもりだったんだ」
「あらぁ、それなら終わるまで扉の向こうでこっそり見守ってたわよ。でもあんたはそういうの、無理でしょ? きちんと手順を踏んで、完璧に準備して、三年経ってようやく迎えに行く男だもの。昨日の今日で手を出すようなら、私だって二人っきりにしなかったわよ」
「姉上………」
「やぁね、怖い顔しないのよ! さ、ナディア様のことは任せて、あんたも身綺麗にしてきなさいな。昼餉はわたしが用意してあげるし、婚儀は夕刻からだから」
威勢の良い姉に急かされて、ジャミールはしぶしぶといったふうに立ち上がった。
「悪いが、ナディア、少し出かける。主に買い物と、何より禊だな。昼までには帰るよ」
「はい。いってらっしゃいませ」
ナディアは立ち上がりかけて、ふと気が付いた。ドゥーヤでは、主人が出かける時には一家総出で玄関先まで見送ったものだが、ここではどうだろう。
逡巡しているうちにも、ジャミールはかがんでナディアの頬に素早くキスをした。
「行ってくる」
頬を押さえて惚けているナディアに手を振り、ジャミールは風のように部屋を出て行ってしまった。代わりに、カーラがニヤニヤと近づいてきた。
「へ~ぇ、うまく行ってるようで、何よりですわ」
「……お願い、からかわないで、カーラ。どんな顔をしたらいいかわからない」
耳まで熱い。友人であり幼馴染でもあり、義理の姉にもなる女性に見せていいものじゃないだろうに。
恥じらって顔を伏せるナディアの前に立つカーラは上機嫌そうだ。
「ふふ、さぁ立ったついでにそのまま着替えてしまいましょう。花嫁衣装も一度、水通しをしますわね。代わりの服は、ジャミールがたくさん用意しているようですから」
砂に汚れてしまった花嫁衣裳を脱ぎ、カーラと同じ
着替えをすませて振り返ると、先ほどまでの笑顔はどこへやら、カーラは花嫁衣裳を膝に置いてため息をついていた。
「カーラ、顔色が良くないわ。昨夜も寝てないのでしょう?」
ナディアを迎えに、東のオアシスまで往復しているのだ。しかも、結婚したばかりの夫が戻ってこない。そんな中、婚儀の手伝いをしてくれるという。今の彼女はもうナディアの使用人でも何でもないのに。
「ありがとう、カーラ」
心から感謝して言うと、カーラは目を瞬かせ、それから少し上目遣いにいたずらっぽく微笑んだ。
「お礼だなんて。私は、お嬢様にジャミールを気に入ってもらいたくて必死なだけですよ。お嬢様の気が変わらないうちに、さっさと結婚させてしまいたいだけですわ」
「あら、カーラは私ではなくジャミールの味方なのね?」
年上の友人に、いつものような笑顔が戻ってほっとする。
するとカーラはナディアの手を取って、自分の膝の上へと導いた。
これから、花嫁のための祝福と魔除けの護符を手の甲に描くのだという。
ヘンナの木の粉末を水に溶いて、細い枝で器用に肌に塗りつけていきながら、カーラは小さく微笑んだ。
「ふふふ、ドゥーランは家族の絆を何より大切にしますから。お嬢様も、早くこちら側にいらっしゃって」
──こちらと、あちら。
目に見えない境界。狭間にいる今のナディアは宙ぶらりんだ。ついてきたはいいものの、ジャミールがいなければ右も左もわからないこの街。一人にされたら、きっと心細いことこの上ない。
「……うん。私、あなたたちの仲間になれるのかしら……」
「すぐに慣れますわ、きっと」
できた、とカーラはナディアの手の甲にふぅっと息を吹きかけた。艶のあったヘンナのインクは、乾くとムラなく濃い赤茶の線となって、ナディアの日焼けした肌色によくなじんだ。
緻密に描き込まれたヘンナの紋様に感嘆して、ナディアはうっとりとそれを眺めた。ドゥーランたちの、自然を感じ、それを刺繍や紋様として表現する技法にはほとほと感銘を受ける。
(こんな素晴らしい能力を持つ人たちを、ドゥーヤの人間はどうして支配しようとするのだろう……)
物思いにふけるナディアの背を押して移動を促しながら、カーラは忙しそうに言った。
「さて、これからお嬢様の肌を磨いて、お化粧をして、髪を結って……それから、昼餉の支度、夜食の準備に、寝台の準備と、やることはたくさんありますよ」
――寝台。
ドキリと心臓が跳ねて鼓動が急に早く鳴りだす。ナディアは居心地悪くもじもじとした。
「あ、あの、カーラ……?」
「はいはい、どうされました?」
てきぱきとヘンナ染めの片づけをしながら、カーラは声だけで返事をした。
「聞いてもいいかしら、そ、その…………ハーディンと、結婚したときのこと……」
カーラは振り返ると、心得たとばかりに、にたりと意地悪く微笑んだ。
「あら、お嬢様でもやっぱり気になります? ご安心ください、お嬢様。ドゥーランの男は、伴侶を何より大切にいたします。強引に事を進めたりもしません。逆を言えば、お嬢様が是といえば万事がそうなりますの」
「私が決めるの……?」
ナディアは顔を真っ赤にして俯いた。
「ええ、ここは自由を愛する遊牧民の街。式だって伝統的な流れはありますけど、すべてそれ通りにする必要はありません。夫婦というのもそう。ナディアお嬢さまとジャミールの、お二人の形を作っていけばいいんです」
先輩花嫁はそう言って、まだ不安そうなナディアに向かって静かに微笑んだ。
「弟のこと、よろしくお願いいたします」
カーラは床に手をつき、深く頭を垂れる。ナディアも慌ててそれにならった。
「ふつつかものですが……よろしくお願いします、お
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます