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「ん? なんだい? 少年。私の顔に何かついているかい? それとも、あまりの美しさに見とれてしまったかい?」

 ノアの発言に、言葉を出す為に開いたホルンの口からは、深い溜息が零れだした。

「・・・どちらも違います。ノアさんは、シュガーホープ七世様の専属給仕人なんですよね?」

「ああ、いかにもそうだね。よく知っているね? まさか、君は私の追っかけかい?」

「違います。でも、そんな人がそんな事をやってもいいんですか? 今だって、仕事をさぼってるって言ってましたけど、大丈夫なんですか?」

「そんな事とは、どんな事だい?」

「下水処理場に不法侵入したり、勝手に下水に飛びこんだりです」

「不法侵入とは人聞きが悪いじゃないか? 私は、ちょっとお邪魔をしただけだよ。ちゃんと、『お邪魔します』って言ったさ。そんな事よりも、強固な要塞に侵入し、最下層まで誰にも見つからずに辿り着いた努力を誉めてもらいたいものだね」

「鍵はどうしたんですか?」

「そんなもの、私の手にかかればイチコロだよ。このヘアピンで鍵穴をコチョコチョくすぐってあげれば、鍵は喜んで開いてくれるよ」

 ノアは髪をまとめて止めていたヘアピンを抜き取り、ホルンに見せた。もう今更驚きはしないホルンは、生暖かい笑みを浮かべている。

「それで、大丈夫なんですか? シュガーホープ様に怒られたり、なんか罰を受けたりしないんですか?」

「私の身を案じてくれているのかい? それは、ありがたい。しかし、大丈夫なのだよ。私は、シュガーホープ様からの寵愛を受けているからね。私は特別なのさ。この世の支配者と言っても、所詮男だ。あのジジイも私の美貌にメロメロなのさ」

 この世界の絶対的権力者をジジイと言った。聞いているこっちが焦ってしまうと、ホルンは周囲に人がいないかを確認した。誰一人おらず、ホルンは胸をなで下ろした。極刑ものだ。

「メロメロって?」

「なに!? 分からないのか!? 世代間相違とは、この事か!? いやはや、年は取りたくないものだね」

「おいくつなんですか?」

「女性に年齢を聞くなんて、まだまだ子供だね。まあ、別に隠す事もないがね。ピチピチの二十八歳さ」

「ピチピチ?」

「な、なんだと!?」

 ノアはめまいを起こし、卒倒しそうになっていた。ホルンは、頭を傾け、心配そうにノアを見つめていた。つまりノアは、シュガーホープ七世から大切にされている為、何をやっても許されるのだと、ホルンは理解した。まさに特別扱いで、特例な存在なのだという事が言いたいのだろうが、どこまでが本当なのか疑わしいホルンであった。

「なんだい、その目は? 少年、そんな目で見られると傷つくじゃないか? 私が嘘をついているって言いたいのかい? いけないよ、それはいけない。子供はもっと素直じゃないと。なんて騙し甲斐のない子供だ」

「やっぱり嘘なんだ」

「いや違うよ。失言だ。私は生まれてこの方嘘なんてついた事がないのだよ。とまあ、色々言ったところで、口では何とでも言えるからね。では、こう言わせてもらおうかね。信じるか信じないか、君が決めるといいさ。少年君」

 ノアは、腰に手を当ててにっこり微笑み、前かがみになった。突然、顔を接近されたホルンは、照れくささから身を引いた。すると、籠の中で騒いでいた『マスイノトリ』が、よりいっそう騒ぎ出した。

「ピチチチ! ピチチチチチ!」

「ああ、やっぱり『マスイノトリ』か。先ほどから気にはなっていたのだよ。なるほど、そいつを捕らえて闇市で売り飛ばそうという算段か。君もなかなかの悪党じゃないか」

「ち、違うよ! 保護したんだよ! 冬山が生息地だって聞いたから、放しにきたんだよ。なかなか体調が戻らなかったんだけど・・・でも、今は元気だね? なんでなんだろう?」

「きっと、私に会えて嬉しいのだろうさ。子供の頃から、何故か『マスイノトリ』には好かれてしまってね。どれ、その子を私に預けてくれないか?」

 ホルンは小さく頷いて、ノアに鳥籠を手渡した。籠の中では、『マスイノトリ』が、羽を羽ばたかせている。ノアが籠の扉を開けると、勢いよく『マスイノトリ』が飛び出してきた。頭上を二回三回と旋回し、ノアの肩に着地した。そして、『マスイノトリ』は、まるで歌でも歌うように、楽しそうに鳴き続けている。ノアが指先を『マスイノトリ』に近づけると、くちばしでツンツンと突いている。ホルンは、唖然とその光景を眺めていた。

「本当だ。ノアさんに懐いてる。野生の鳥が、人間に懐くだなんて」

「ほらね。言った通りだろ? 見直したかい?」

 ホルンはカクカクと何度も頷いた。ノアはホルンの頭に手を置き目を細める。

「この子は私が預かるから、安心したまえよ。君には今度私の親友を紹介しようじゃないか。プッチっていう可愛い奴なのだよ。それでは、私はここらで退散しますかね。ドラムさんによろしく伝えておくれ」

 ノアは、振り返って歩き出した。と、思ったら、ピタリと止まり、慌ててホルンの元へ戻ってきた。ホルンが首をひねっていると、ノアは口元に手を当てて顔を寄せてきた。

「シュガーホープ七世様の事をジジイ呼ばわりした事は、他言無用で頼むよ。なにかと面倒だからね。では気を取り直して」

 小声で話すノアに、ホルンは噴き出してしまった。ノアは両手で左右のスカートを持ち上げて、右足を後ろに引いた。ノアの頭頂部が見える。

「ごきげんよう」

 顔を起こしたノアは、優しく微笑み、踵を返した。ピチチチと『マスイノトリ』が鳴き声を上げ、ホルンには別れの挨拶のように聞こえた。遠く離れていくノアをホルンはしばらく眺めていた。これまで出会った事のない、不思議な人物であった。

「おーーーい! ホルン!」

 突然、背後から名を呼ばれ振り返ると、ドラムがこちらに歩いてきた。

「悪かったな。事務員からお前がここに来てるって聞いてな。弁当ありがとな」

「え? でも、事務所にはまだ寄ってないよ」

「何を言ってるんだ? ここは事務所の二階から、丸見えだぞ?」

 ドラムは振り返って、下水処理場の二階事務所を指さした。明かりがついている建物内の二階部分から、人がこちらに向かって手を振っている。ホルンの知っている人で、大きく手を振り返した。ホルンは弁当をドラムに手渡した。

「ところで、奇人変人ノアもいたんだろ? もう帰ったのか? 事務員が面倒事は御免だから、追っ払ってくれって言ってたんだが」

「あ、うん。さっき帰っていったよ。父さんに命を助けられたから、よろしく伝えて欲しいって言ってたよ」

「ああ、話を聞いたのか。他には、何か言ってなかったか?」

 ホルンは眉間に皺を寄せて考えた。色々と話を聞かされて、頭の整理がついていない。

「父さんにお礼を受け取ってもらえなくて傷ついたけど、もう大丈夫だって」

 ホルンがドラムを見上げると、彼は盛大に噴き出した。ホルンの顔に大量の唾がかかり、上着の袖で顔を拭った。

「悪い悪い。具体的な話は聞いてないのか?」

「えっと、体がなんとかって・・・」

「あのバカ野郎! 子供になんて事を言いやがるんだ!」

 突然怒鳴り声を上げたドラムに、ホルンは目を丸くしている。ホルンは首を傾けて、不思議そうにドラムを見上げた。ホルンには、『体を好きにして欲しい』というノアのお礼は、ドラムの元で働きたいという労働力を提供するといった意味合いで捉えていた。ドラムがどうしてそんなに怒っているのか理解できないホルンであった。

「フルートには内緒にしておけよ」

「え? どうして?」

「どうしてって、余計な心配をかけたくないからだよ。頼むから、黙っておいて下さい」

 ドラムは、深々と頭を下げた。狼狽えるホルンであったが、大人の事情があるのかもしれないと、察して頷いた。

「あ、そうだ! 下水ってどうして、しょっぱいの?」

「おお、よく知っているな? あの女に聞いたのか?」

 ホルンは顎を引いた。ドラムは、ノアの事をあまり快く思っていない様子だ。面倒事に巻き込まれたのだから、致し方ないのかもしれない。

「それは、万が一にでも人々が誤飲しない為だ。しょっぱいとすぐに吐き出せるからな」

「どこかで、しょっぱくなる物を入れているって事なの?」

「いや、俺達が何かをしている訳じゃねえぞ。下水は最初から、しょっぱいのさ。山から湧き出てくる時からだ。だから、人間は下水として活用させて頂いているだけだな。女神様のご厚意だ」

「じゃあ、最終地点を過ぎた下水はどこへ行くの?」

「それは山に吸収されるんだ。女神様が処理して下さっている訳だ。俺達の仕事は、女神様のお手間を多少でも省く為のものだ」

 ドラムは自慢げに語ると、弁当を持ち上げた。

「じゃあ、弁当ありがとな。気を付けて帰れよ」

 職場に向かって歩いていくドラムの背を眺めながら、ホルンは小さく手を振った。

 女神様、女神様。すべては女神様のご厚意で、ご加護を受けている。人々の生活は、女神様のご加護の賜物だ。幼少期から散々語られてきた。

 どうにも腑に落ちないホルンは、巨大な施設の背景と化している壮大な冬山を見上げた。

 女神様は、大人達が言うように、本当に実在するのだろうか?

 仮に実在したとしても、ホルンが見上げている冬山にいるのは、魔女だ。

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