1-9

 見た目には、ビッシュは遭難前とは変化がない。皆と会話をしている時は、楽しそうに笑っている。しかし、ホルンは気が付いていた。ふとした瞬間や、一人になった時に、呆然と遠くの空を眺めている。何か考え事をしているように見えた。いや、空ではなく、世界を取り囲む山脈を見ているようであった。そんなビッシュの姿を目撃する度に、ホルンの内側にポトンポトンと、黒い染みが落ちていくような感覚に襲われた。冬山で遭難し、帰還した者は、『魔女の落とし子』の疑いがかけられる。ビッシュも例外ではなく、疑いがかけられていた。しかし、疑いが晴れたからこそ、目の前にビッシュはいる。だが、そんなビッシュが、高くて巨大な山脈を眺めている。まるで、想いを馳せているように、ホルンの目には映っていた。以前にビッシュが言っていた、『まどろみの霧』に入ってみたいという願望であって欲しい。

 一日が終わり、教室から出ていくビッシュの後を追うように、ホルンは廊下に出た。

「ビッシュ、この後、遊びに行かない?」

「ああ、悪い。今日も忙しいんだ。いつもいつも悪いな。しばらく、遊べそうにないんだ。本当に申し訳ない」

「忙しいって何をやってるの? 家業の見習い?」

「まあ、そんなとこだ。ホルンもそろそろ将来の事を真剣に考えた方がいいんじゃないか? って、余計なお世話だな。ホルンなら、大丈夫だよ」

 ニカリと白い歯を見せるビッシュに対して、ホルンの笑顔はどこかぎこちない。ビッシュは、手を上げて足早に去っていった。もう何度目だか、記憶にない。こうして、ビッシュの後姿を見送る事が。

 ビッシュは、嘘をついている。

 毎日毎日、ホルンの誘いを断るビッシュを不審に思っていた。ホルンは、アカデミーの帰りにイングウェイ家に立ち寄った。すると、ビッシュの母親との世間話から、最近見習い修行も疎かになっている事実を知った。

 あれ? ホルン君と遊んでいたんじゃないの? あの子は毎日毎日帰りが遅いから、てっきり遊びに夢中になっているのだとばかり思っていたわ。あんな事があったばかりなのに、ほんと親の心子知らずとはこの事ね。何度注意しても聞きやしない。

 ホルンではない別の誰かと遊んでいるのかもしれない。それはそれで寂しいものだが、ホルンの事を慮って嘘をついたのかもしれない。

 いったいどこで何をしているのだろう?

 ホルンはざわつく胸を掴んで、ビッシュの影を追うように、薄暗い廊下を眺めていた。

「どうしたんですか? ベイスホーム君? 廊下に突っ立って」

 突然背後から声をかけられたホルンの肩が、激しく飛び跳ねた。慌てて振り返ると、教師のシーフが眼鏡を持ち上げていた。

「・・・先生、あの・・・教えて欲しい事があるんですけど」

「はい、なんでしょう?」

「・・・『魔女の落とし子』についてなんですが・・・」

「なるほど、イングウェイ君の事ですね?」

 シーフが見つめると、ホルンは遠慮がちに少し顎を引いた。そして、ホルンは真っ直ぐにシーフを見上げている。暫く、見つめ合った後、シーフは溜息を吐いて眼鏡を持ち上げた。

「あまり知らない方が良い事ですね。興味本位で首を突っ込むと、身に危険が及ぶ可能性があります。ご法度というものです。それでも聞きたいですか?」

「はい、教えて下さい」

「ふう、脅しは効かないようですね。それほどまでに、イングウェイ君の事が大切なのですね?」

 シーフが薄い唇を微かに上げ笑みを浮かべると、ホルンは力強く頷いた。

「分かりました。あまり大っぴらに話せる内容ではないので、私の部屋へ行きましょう。しかし、他言無用です。良いですね?」

 シーフは口の前で人差し指を立てた。ホルンはシーフの後を追って、廊下を歩いていく。一階の一番奥の部屋が、シーフの個室だ。扉の鍵を開けシーフは、ホルンを中に招き入れる。扉を閉めて、鍵をかけた。部屋の一番奥には窓が設置してあり、黒いカーテンがかかっている。窓の前には木製のテーブルと椅子、その前にローテーブルを挟んでソファが向かい合っている。シーフはソファに向かって手を伸ばし、ホルンを座らせた。シーフは、ホルンと向かい合うように、反対側のソファに腰を沈めた。

「さて、『魔女の落とし子』についてでしたね? しかし、いくら教師と言えど、全てを知っている訳ではありません。何せ、教科書に載ってはいないので。あくまでも、皆が話している噂話程度だと認識して下さい」

「はい、分かりました。でも、先生の元には、生徒以上の情報が回ってくるんじゃないですか?」

 真っ直ぐに見つめるホルンに、シーフは困った顔を浮かべ、こめかみを指で掻いた。

「・・・なかなかに鋭い。とは言え、噂は噂です。私が語るのは、真実ではありません。その事を肝に銘じて下さい。教師が生徒に話すような事ではありませんからね」

 シーフに迷惑をかけたり、困らせたい訳ではない。ホルンは話半分で聞く事を告げた。あくまでも、ご教授頂くのではなく、他愛のない世間話だ。シーフは、口元に握りこぶしを持っていき、軽く咳ばらいをした。

「女神伝説の事は良く知っていますね? これは授業でやっていますからね。知らなかったら、お説教ものです。この話は割愛しますが、通称冬の女神様、氷雪の女神アルプ=ウィント様が、冬の魔女と呼ばれるようになったのは、十年ほど前からです。ウィント地区を統べる冬山に宿る女神様であるという言い伝えです。ここまでは、宜しいですか?」

 シーフが尋ねると、ホルンは大きく頷いた。

「なぜ、女神から魔女と呼ばれるようになったかと言うと、十年前から冬山での遭難者が多発し、救助された遭難者が口々にこう言ったのです。『冬の女神様に会った』と。そして、こう言われたそうです。『この世界の外側には、別の世界が広がっている』と。『まどろみの霧』を抜けると、新世界が広がっているという事のようです」

「し・・・新世界?」

「ええ、そのようです。そして、こう続きます。『新世界には、絶大な富が存在する』と。そうなれば、外の世界に興味を持ったり、欲の皮が突っ張っている者達が現れても不思議ではありません。そして、その話が展開し、シュガーホープ様は、その事実を知っていて隠していると思う者が現れます。外の世界の富を独占していると。それ故、冬の女神様は、民を惑わす悪しき者『魔女』であり、魔女に魅了され洗脳された民を『魔女の落とし子』として、蔑むようになりました。処罰の対象となったのです。民は監視され、冬山への入山が禁じられたのです」

「そんな事があったんですね。でも、いくらなんでも、処罰なんかしなくても」

「厳しいお仕置きといったところでしょうか? 悪く言うと、見せしめです。実害が大きければ大きいほど、罪を犯さなくなるものです。事実、惑わされ登頂を試みた多くの者が、行方不明になっています。それもそのはず。あんな頂上も確認できない標高の山を登るなんて、命がいくらあっても足りません。命知らずの者達を、思いとどめる策なのです。そうやって、シュガーホープ様は、民を守っておいでなのです。女神様やシュガーホープ様のご加護を無下にする事はありません。今のままでも、十分幸せでしょう? そうは思いませんか?」

「そう思います」

「とは言え、人間の欲や好奇心というものは、一種の魔物です。それ故、行方不明者が後を絶たないのでしょうね? 安定的に仕事が確保され、衣食住は保証されています。これ以上の幸福を求めた者に罰が当たっているのかもしれません。しかしながら、衣食住の確保だけでは満足できない者がいるのも事実で、それだけでは家畜同然だと思ってしまうのでしょうかね? 私には理解できませんが」

 シーフは、ソファから立ち上がると、コーヒーをカップに入れた。ホルンも勧められたが、丁重に断った。ホルンには、苦いコーヒーが口に合わない。シーフは、カップに口をつけ、ソファに座った。

「もう一度言いますが、この話はあくまでも噂です。遭難者の戯言だと思って下さい。実際には、どれほど書物を漁っても、『外の世界』というものは、記載されておりません。お伽話としての創作物なら、楽しめるかもしれませんね。兎に角、『外の世界』という幻想に取りつかれて、山を越えようとするのは、自殺行為の何者でもありません。シュガーホープ様は、その事を憂いておられます。個人でも問題なのですが、民衆を扇動するような行いも重い処罰を課せられます。ベイスホーム君、決して、興味を持ってはいけませんよ。イングウェイ君なら、大丈夫です。シールドの方々が、解放したのですから、問題ないはずです」

 シーフはにこやかに微笑み、ホルンの気持は少し軽くなった。教師であるシーフと同じ意見である事に安堵した。ホルンは深々とお辞儀をして、部屋を出ていく。

「ベイスホーム君」

 ドアノブを掴んだところで、ホルンは振り返った。

「何ですか?」

「とは言え、やはり教師として私も心配しています。イングウェイ君の事で何かありましたら、またいつでも、私に教えてもらえますか?」

「はい、分かりました」

 ホルンは、シーフの部屋から出て行った。

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