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「やあ、少年。君もダムの放流を見に来たのかい? しかし残念ながら、今はおとなしいものだ。だが、私はこの静けさも大好きなのだよ。佇まいが美しいじゃないか。それに、嵐の前の静けさを物語っており、ワクワクが止まらないのだ」

 ノア=キッシュベルは、笑みを浮かべながら、柵を背にもたれかかった。ホルンは、ノアを間近で見たのは初めての事で、息を飲むほどの美人であった。奇人変人と人々に呼ばれている事に違和感を覚えた。

「あ、はい、そうです。でも、父さんがここで働いているので、お弁当を届けにきたついでに寄っただけです」

 ホルンは、右手に持った弁当を見せるように、腕を上げた。

「そうかい、そうかい。お使いの途中かい。君は偉い子だね。私は、仕事を抜け出して、ここにきたのさ。どうしても、見たくなってしまってね。思い立ったら、気持ちを抑えきれない性分でね。良い子は、決して真似しちゃダメだよ。私は、ダメな大人の見本さ。反面教師として、使うがいいよ」

 ノアは両肘を折り曲げ、後ろ向きに柵の上に肘を置いた。まるでふんぞり返っているような形だ。仕事をさぼっておいて、まるで悪びれていない。奇人変人も誇張された噂ではないような気がしてきたホルンは、苦笑いを浮かべる事しかできない。子供に気を遣わせる大人がそこにいた。

「あれ? でも、ノアさんは、シュガーホープ七世様の専属の給仕人じゃないんですか? だ、大丈夫なんですか?」

「ん? どこかで会った事があったかな? これはこれは、大変失礼した。しかしながら、私は君の事を微塵も覚えていないのだよ」

「え? あ、いや。会った事はないです」

「そうかそうか。会った事がないのか。それは良かった。私の記憶力も満更捨てたものではないようだね。ところで、君の名前はなんていうのだい? 君だけ私の名前を知っているなんて、不公平にもほどがある。そうは思わないかい?」

 ホルンは若干戸惑いを見せ、慌てて背筋を伸ばして頭を下げた。

「ぼ、僕は、ホルン=ベイスホームといいます」

「ノア=キッシュベルと申します。以後お見知りおきを」

 ノアは、左右の手を体の前で重ね、礼儀正しく深々とお辞儀をした。この姿だけを見ると、給仕人というのも嘘ではないようだ。頭を上げたノアが、ホルンを見つめて小さく首を傾げた。

「おや? ベイスホーム? という事は、君はドラムさんの息子さんかい?」

「父さんを知ってるんですか?」

「おお、そうかいそうかい。ドラムさんの息子さんかい。ドラムさんには、以前命を救われてね。感謝してもしきれないのだよ。お礼をしたいと申し出たのだが、受け取ってもらえなかったのだよ。なるほどなるほど。そういった事情だった訳だ。傷ついて損をしてしまった」

 事情が呑み込めず、ホルンは呆然とノアを眺めていた。ドラムがノアを救い、そして傷つけた。

「あのノアさん。父さんが、ノアさんを傷つけたんですか? それはいったいどういう事ですか?」

「ああ、傷ついたね。酷く傷つけられた。私はお礼をしたかっただけなのに、拒絶されたのだよ。私の体を好きにして欲しいと願い出たのさ。こう見えても、体には自信があるからね。しかし、まさか妻子持ちだったとは知らなかった。ドラムさんも人が悪い。教えてくれていれば、傷つかずに済んだものを。しかし、私の体に魅力がなかった訳ではない事を知って、今はいっそう清々しい気持ちだよ」

「・・・はあ、そうですか。それで、命を救われたって、何があったんですか?」

「それはね。下水道の最終地点がどうなっているのか、どうしても知りたくなってね。処理場に潜入したのだよ。そして最終地点は、とてつもなく広い水槽のようになっていてね、世界中の下水が集約されているのだ。ここがまた臭いのなんの。私は我慢できずに、思わず飛び込んでしまったのだよ」

 ノアは興奮気味にまくしたて、上半身を曲げて飛び込む格好をしている。

「・・・それで、溺れたんですか?」

「そうなのだよ! 良く分かったね。さすがドラムさんの息子さんだ。自頭がいい。最終排水口は、壁一面が細かい網目状の鉄格子のようになっていてね。固形物は留まる仕組みになっていたのだよ。ちなみに、ドラムさんはその網に溜まった廃棄物を回収処理するお仕事をされているのだよ。お掃除屋さんだね。目詰まりを起こさないように日夜頑張っておられる。とても、尊いお仕事だ。本当に頭が下がる。君も胸を張って誇る事をお勧めするよ」

 早口でまくし立てるノアに、面食らっているホルンであるが、父親の仕事を褒められて照れくさくも嬉しくなった。興奮したノアは、柵から離れホルンへと歩み寄る。その嬉々とした姿に、ホルンは後退りをした。

「それが、あまりにも水流が強くてね。網にはりつけ状態になっているところを、ドラムさんに救われたのさ。ドラムさんは、職務中だったからね。酸素供給機を頭からかぶり、全身を特殊な服装で固めておられた。裸一貫の私とは、装備がまるで違う。装備だけではなく、当然身のこなしや体力も素晴らしかった。まさにプロだ。私は命からがら、救い上げてもらったのさ」

 近づくノアに対して、比例的にホルンは離れる。ホルンが知らない父親の仕事内容や働きっぷりを教えてもらえたのは、非常にありがたかった。そして、それを遥かに上回る驚きを受けた、ノアの奇行ぶり。裸一貫と言っていたから、素っ裸で世界中の下水が集まる場所に飛び込んだようだ。直接的にも危険だし、間接的な衛生面でも非常に危険だ。

 ああ、この人馬鹿だ。奇人変人だ。

 さすがに口に出す事は、憚られた。あまりお近づきにならない方が身の為だと、ホルンの防衛本能が訴えている。

「あの・・・差し出がましいようですが、あまり危険な事はしない方がいいと思いますが・・・怪我でもしたらまずいですし、命を落とすようなことがあっては大変です」

 至極真っ当な正論を、子供に言われた大人がいた。しかし、ノアはキョトンとした呆けた顔で、ホルンを見つめていた。そして、小さく噴き出した。

「君は子供の癖に、年よりみたいな事を言う子だねえ。無鉄砲は、子供の特権なのに放棄しているのかい? いや、しかし、君が正しい。だから、私の真似はしちゃいけないよ。しかし、この体は楽しむ為の道具でしかないのだよ。この命さえ、私にとっては好奇心を満たす為の、玩具でしかないのさ」

 ホルンは、自分が間違っているとは思わなかった。ノアもホルンを否定している訳ではない。しかし、ホルンは自分がとても矮小な存在に思えてならなかった。ビッシュにも『つまらない』とよく言われていた事を思い出した。ホルンは、複雑な面持ちで、ノアを見上げた。ノアはホルンの視線を受け、笑みを浮かべた後、体の前でパンッと手を合わせた。

「ところで、少年。下水はしょっぱいって知っていたかい?」

「いや、さすがに下水を舐めた事はないので」

「そうかい、そりゃ残念だ。ドラムさんの息子さんなら、知っているかと思ったのだがね。溺れた時に、ガバガバと大量に下水を飲んでしまってね。その時に知ったのさ。いやあ、なかなかできない経験をできて嬉しい限りだ。今度、ドラムさんに聞いておいてくれないかい? 気になって気になって夜も眠れないのだ」

 ノアは、わざとらしく、あくびをした。多くの人が言っているように、ノア=キッシュベルは、奇人変人だ。その事に、もはや疑いの余地は存在しない。変わった人ではあるが、知らない事を色々教えてもらえて、ホルンの好奇心は掻き立てられた。実際に自分自身が経験する事には抵抗があるが、話を聞く分には楽しくなってきていた。そして何より、ノアは変な人ではあるが、悪い人ではなさそうだ・・・悪い人?

 ノア=キッシュベルは、この世の絶対的権力者であるシュガーホープ七世の専属給仕人だ。

 あまりの情報量の多さに、ホルンは少々混乱気味だが、思い浮かんだ疑問を口にすべく、ノアを見つめた。

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