Ⅲ-5 ジャズシンガー
ビリーが歌っているというジャズクラブは、彼女のいたスナックとさほど離れていなかった。
「ジャズ好きなんですか」
僕がビリーからもらった名刺を見せると彼女がそう言った。
「友だちがよく行くスナックの女の子なんです」
「あなたはよく行かないの」
「名刺もらった時が二回目かな」
「ビリー堀出さん」
ベタすぎるよなあ、この名前。軽く見られそう。ものまね芸人じゃないんだから。
「ジャズに興味はありますか」
「特には。でも生演奏なら聴いてもいいかな」
そう言って彼女が笑う。
「そのシャツも染めたんですか」
「ラベンダー色」
「でもラベンダーで染めてもこんな色にはならないの」
「そうなんですか」
「これは失敗作。なかなかうまくいかなくて」
「でも悪くないですよ」
「自分で着る分にはね」
またストーカーなんて言われちゃうのかな。僕は地下にあるジャズクラブにつづく階段を道路の反対側からじっと見ている。ジャズのライブは毎日行われているわけではないようだ。店の名前も分かったし、ネットで調べれば詳しいことがわかるかもしれない。
ねっとりした空気が体にまつわりついて、ただ立っているだけで汗が首筋からしたたり落ちてくる。平日のせいだろうか、人通りはそれほどでもない。ときおり生ぬるい風が吹き抜けていく。階段からは誰も出てこないし、階段を下りていく人もいない。看板が出ているので営業はしているようだ。だいぶ夜が更けてきた。
「飲みに行くのは別にかまわないけど」
この前コーヘイと飲んだ次の日、あいつがポツリとそんなことを言った。わかってるさ。でも、夜の街をフラフラと歩いてみることも必要なわけだし。ショットバーやジャズクラブに行くことだって。
タバコの煙が僕の鼻先をかすめて漂っていく。となりにはタバコをくわえたサングラスの女性。やけに鮮やかな口紅の色。
「今日は歌わないわよ」
声が聞こえた。ピンクのTシャツに細身のジーンズ。ヒールの高いサンダルを履いている。
「聴きに来てくれた」
僕は怪しく赤く光るタバコの先見ている。
「金曜の夜」
そう言うと彼女は僕から離れていく。低いハスキーな声。スナックで会った彼女の声とは違う。本当に同一人物。そんなことを考えながら、夜の街に消えていく彼女を見送っていた。
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