Ⅰ-5 トンカツ屋にて
「スーパーには行かなかったの」
「行こうと思って冷蔵庫はチェックしたんだけど、運動不足だし少し回り道しようと思って」
「そしたらいつの間にかデパートの前に来てた」
「そうそう」
「本当に。ホワイトデーじゃないの」
「違うよ」
「そうだよね。返す人なんていないはずだし」
「でもさ、もらわなくてもあげてもいいんだよね」
「それはそうだけど。もう止めときなよ。メイド喫茶の女の子とか。路上で踊ってるアイドルとか。お兄そんなタイプじゃないんだから」
わかってるよ。そんなつもりもないし、もうそんな相手もいないんだから。そう思ってあいつを見ると、あいつはもう僕のほうを向いていない。
注文したトンカツを店の人が運んできたようだ。僕はそのトンカツの大きさに目が点になる。
「そんなに驚かないでよ。ジャンボトンカツ注文したの、わかってるよね」
「それにしてもデカくない」
「凄いでしょう。じっくり揚げてあるから中がとろとろでおいしいの」
そう言いながらあいつは僕がすっていたゴマの器を取り上げて、その器に特製ソースを流しいれた。ねっとりしていて市販のトンカツソースより濃い感じがする。
「このソースおいしいんだよ。甘いだけじゃなくて、スパイスが効いていてピリッとくるんだ。ここにはウスターソース置いてないから」
「ここはよく来るの」
「たまにね」
あいつは意味ありげに笑っている。そして、僕の前にもジャンボトンカツが運ばれてきた。
「二人で一つでも良かったんじゃない。ほかに軽そうなもの注文して」
「そうだね。あたしはエビフライにして、お兄から半分もらってもよかったかも。でも、たまには体力つけなくっちゃ。大丈夫、食べきれないときはあたしが食べるから」
「レモンを絞って、最初は塩で食べてみて」
「ソースじゃなくて」
「とりあえずね」
あいつはそう言って、自分ではソースをたっぷりつけてトンカツを食べている。
たしかに大きめのレモンがトンカツに添えられているし、岩塩の入った小皿も付いている。切り口を見ただけでいつものトンカツと違うことはすぐにわかった。ほろほろとくずれてしまいそうな肉からジューシーな肉汁があふれ出ている。レモンを絞り、岩塩を軽くつけて食べてみた。衣のカリッとした食感の後、肉が口の中で溶けていく。これはうまいなあ。
あいつは自慢げに僕のほうを見ている。
「肉の味がよくわかるでしょう。ごはんはおかわり自由だから」
そんなこと言われても、どんぶりにしっかり盛られた、このごはんで十分のような気がする。
「それでどうするの。ホワイトデー」
「おいしいね、このトンカツ」
「あげる当て、ないんでしょう」
あいつがしつこく聞いてくる。
「ソースかけてもいいかな」
僕は特製ソースをかけてトンカツを一口食べてみた。あいつの言う通りスパイスが効いている。
「これもいいね」そう言いながら
僕はつけ合わせのキャベツにもソースをかける。あいつは口をもぐもぐさせながら僕を見ている。僕はキャベツをはしでつまんで口の中にいれた。
ごはん足りなくなりそうだけど、おかわりはやっぱムリかな。あいつはまだこっちを見ながらあさりの味噌汁を吸っている。
「今度スーパーに行ったとき、好きなの選んでいいよ。それとも食べ終わったらデパートに戻ってみる」
「お金あるの」
そう言いながらあいつはニコっと笑った。
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