Ⅰ-4 コーヒーの香り

「カツライスは裏メニューなんだよね」

 あいつはそう言いながら、フォークでナポリタンをすくって口に入れている。口のまわりがナポリタン色。そんな食べ方じゃモテないよね。僕は好きだけど、子どもの頃から。

「拭いてあげようか」

 僕は紙ナプキンを手に取ってそう言う。

「食べ終わってからね」

「兄妹っていうより、恋人みたいだね」

 カウンターの奥からマスターが言う。

「彼氏に口のまわりを拭かせる女の子なんていないよ。子どもじゃないんだから」

 マスターが笑っている。

「それより早く食べたら。揚げたてなんだし」

 もともとトンカツは、カツカレー用に用意してあるもの。

 それでも常連さんにはカツライスだけでなく、カツ丼も作ってくれる。

「そういえばゆずちゃん、カツ丼好きだったよなあ」

 マスターの言ったことにあいつはナポリタンを食べながらうなずいている。

僕はカツと付け合わせのキャベツにウスターソースをかけた。

「お兄は何にでもウスターだよね。天ぷらとかお寿司にも」

 あのねぇ、天ぷらはともかく寿司にはソースはかけないよ。あの時は醤油とソースを間違えただけ。食べている途中なので言い返したくても言い返せないまま僕は口をモグモグさせている。

 食事の後にマスターの入れたコーヒーが運ばれてくる。コーヒーの香りがテーブルいっぱいに広がった。

「やっぱりこれだよね」僕の一言にあいつがうなずく。

 今日は客が少ないからだろうか、店の中にコーヒーの香りがあまり広がっていない。運ばれてきたコーヒーがいつもよりよく香っているように僕には思えた。

「ねえマスター。あたしカツサンドも食べようかな」

 まだ食べるのか。せっかくゆったりとした気分に浸っているのに。

「あいかわらずゆずちゃんはよく食べるね」

「そのかわり夕飯はお兄の雑炊で軽くサラリと」

 夕飯は僕が作るの。そう思いながらあいつのほうを見ると、あいつの肩越しに帽子がチラリと見えた。一番奥のボックスにお客さんがいるようだ。店の客は僕たちだけかと思っていた。帽子がかすかに揺れて奥のボックスの客が立ち上がる。

 そして、出口のほうに向かって歩いてくる。帽子と同じ濃いグレーのコートを着ている。

「ねえ、何じっと見てるの」あいつが小声で言う。

「別に」僕は小声で答える。

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