Ⅳ-5 レモンの香り

「モーツァルトか」

 日が暮れる時間が急に早くなってきたように感じる。夕暮れどきがさびしく感じられる季節。涼しいというより寒さを感じる季節。窓の向こうから聞こえてくる虫の声もさびしく響く。

 交響曲三十九番。僕の好きな曲。

「悪くないね」

 ここにこんな時間までいるのははじめてかもしれない。日が暮れる前には帰っていた。彼女はずっとメガネをはずしたまま。僕のすわっている窓際の席にベルベーヌのお茶を運んでくる。

 別名レモンバーベナともいうベルベーヌのお茶は、ほんのりレモンの香りがしてリラックス効果もあるようだ。

 風が気持ちよかった。彼女の麦わら帽子が陽の光を遮り、ほのかにレモンの香りがしたように感じた。今飲んでいるベルベーヌよりもフレッシュで清涼感のある香り。

 一面を緑に囲まれた場所からは、秋の空が見えた。そしてなだらかにのびた斜面の先に森が広がっている。

「ねえ、ここからは海が見えるの」

「どうして」

「空の先に水平線が見えたような気がした」

「多分そうね。ここまで登ってくると森の木よりも上になるから」

 二人で斜面を登り僕は噴出した汗を手で拭った。彼女は持っていたタオルを僕に渡してくれた。さっきの香りはこれだったんだ。彼女の汗の匂いだろうか。懐かしい感じがした。でも、どうしてなんだろう。

「お前、ビリーと会ったんだって」

「待ち伏せしてたって」

「別に待ち伏せしてたわけじゃないよ。連絡先がわからなかったからジャズクラブに行ったら、もうすぐ来るだろうって言われたから」

「それで、ビリーに何の用だったんだ」

「パブロでバイトしないか聞こうと思って」

「ビリーはわけがわからなかったって言ってたぞ」

「バイトのことは話さなかったから。話してるうちに無理かなって思って」

「それより、ゆずちゃんとおまえは連れ子同士なんだって」

「言わなかった」

「聞いてないよ」

「お似合いだって、おまえとゆずちゃん」

「そんなこと言ってたの」

「あたしには入りこめないって」

 そもそも彼女に入りこむ気なんてあるのだろうか。僕はレモンの香りのことを考えている。

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