第3話 ミスミコーポ

 休暇の第一日目に私は近所を自転車で散策した。昔よく訪れた坂の上の公園、おばあちゃんと行った手芸店、下町ならではのちっぽけなスーパーマーケット。子ども時代とあまりに変わらずタイムスリップをしたように感じる物もあれば、少し進化している物もあった。公園には新しい遊具が増えていたし、青果店の前にはマンゴーやゴールデンキウイといった、以前はなかったオシャレな果物も並んでいる。公園の展望台から見える町並みも昔と比べると、都会に近づいている感じだ。

 小4の私はこの町にいた頃、ボッチだったから、懐かしい風景を目の前にすると心の傷みも思い出された。当時、母は病気の弟につきっきりだったし、ギリ校区内とは言え、自宅から離れたこの地域には遊び友達もいなかった。クラスの仲の良い友達でこの辺に住んでいる子は一人もいなかった。 

 だから夏休みの前半は公園の柵にもたれて図書館から借りた本を読んだりして過ごしていた。公園の真ん中で仲良さそうに遊んでいる友達同士や兄妹、親子達をチラチラ見てうらやましく思いながら。直射日光があたるページの白さがまぶしくて時々目を閉じたりもした。

 坂道を下る私の目にいきなり飛び込んできた2階建てのアパートの外観に一瞬、時が止まった。懐かしい心の温もり、明るい夏の午後、そして気まずさと後悔。それは――


「ミスミコーポ…」と思い出しながらつぶやいた。十三年前の夏休み、私はこの場所をよく訪れた。

 小4の夏のある日、坂道の下にあるこのアパートの前で、知っている声に呼び止められたのだった。


「清田、どこに行きよるん?」


 それは同じクラスの前田君だった。いつもニコニコ、アハハと笑っている印象の男子。下級生かと勘違いしそうなくらい小柄で、クルクル動く大きな瞳が特徴の子だった。すばしこくて運動神経は良かった反面、成績はさんざんで、先生から返された前田君のテスト用紙を一度見たことがあるけど、それは悲惨な点数だった。

 その日前田くんはアパートの部屋のサッシ戸を開け放して通りに向かって足を投げ出して腰掛けていた。


「ノートを買いに行った帰りなんよ」


 私がそう答えた時、前田君は立ち上がり、ジャンプした瞬間の反動で子ども用のサンダルを器用に履いた。そして私に向かって言った。


「清田、アサガオ観に行くんやけど、一緒にん?」


 そしてアパートの側面にある非常階段をカンカンと音を立てて小猿のように駆け上って行った。


「前田君、アサガオ観にどこに行くん?」


 私があきれたように言うと、前田君はVサインして言った。


「アサガオがぐんぐん育って二階のベランダまでツルが伸びとるんよ。それで最近は二階のベランダから見て花をスケッチしよる」


「えっ!でもそれ、よその人の部屋やない?」


「おばちゃんはいつでもどうぞって言ってくれるけダイジョウブダイジョウブ」


「ダイジョウブダイジョウブって前田君本当に大丈夫なん?」


 私は非常階段の下で躊躇ちゅうちょして心配そうに見上げた。二階まで上った前田君は上からヒョイといがぐり頭をのぞかせて私に手招きした。

 その時、二階の住人がドアを開けた音がした。そして「あら、こんにちは」と小さな訪問客に話しかけていた。

 二階の住人は私にも気が付き、声をかけてくれた。


「あら、とおる君のお友達? こんにちは。いっしょにベランダでアサガオを見る?」


 それは繊細な鈴を鳴らすようなキレイな声だった。そして姿を見た時キレイなのは声だけでなかった。

 前田くんがおばちゃんと言った時に想像した人物像と私の目の前にいる美しい人とは、180度イメージが違っていた。

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