第8話 睡眠不足の理由
また夢をみた。
純喫茶ブランシュの扉を開けて中に入る。いつものカランカランというドアべルが鳴る。いつものように一人でくつろげるカウンター席の壁際に座り、ホットケーキとレモンティーを頼んだ。壁にはターナーの海岸の絵。これは毎週末、現実に起こっている何の変哲もない私の日常。でも壁に架けられた絵はいつもと違う。海岸の遠景で遠くに灯台が描かれている。見ているうちに潮の香りが漂ってきて気が付けばいつの間にか私がいるのは海岸だった。目の前にはダイニングテーブルの上に置かれたミルクセーキが…。 怖くて目が覚める。
「清田さん? 僕ですよ」
二日前に電車で偶然一緒になったリリー処方せん薬局の主任だった。隣にはトミボンもいる。場所は知らない病院の中らしい。
そこに現れた看護師達の話で、私が電車の中で突然倒れ、救急車で駅の近くの総合病院に運ばれる騒ぎになった事を知った。その時電車を降りようとしていた薬局の主任とトミボンが気が付いて、知り合いだからという理由だけで付き添ってくれたと言う。
運ばれた総合病院の救急外来で診察した医師は、睡眠不足と精神的疲労からくる一時的な意識消失発作と
「それじゃ特に入院の必要もないから、点滴が終わって歩けそうになったら帰宅できますよ」
薬局の主任はスマートフォンで奥さんに連絡していた。
「カミさんがさ、もう仕事終わるんで、こっちに来るって。車で家まで送るって言うから待ってて」
「え、でも、迷惑かけてはいけないから…」
「遠慮無用! 何だったら今夜はわが家に来る?」
「とんでもない!」
薬局の主任の名字は右田だという事を救急外来の手続きの時に初めて知ったばかりだった。
「ウチはさ、息子の友達連中がしょっちゅう夕食を食べに来たり、泊まりに来たりするような家なんだよ。カミさんは電車で倒れたって知り合いを放っておけないかもな。ちょっと薬局に学会の案内、忘れてきたんで取りに行く。トミボン、佳織が来るからあとよろしくな!」
――何?ちょっと無責任じゃない? トミボンに押し付けて…――
「ごめんなさい、トミボン、あ、いえ…」
「名前は湯本です。湯本富之でトミボン」
「はぁ」
「驚いたでしょ? 主任が無責任だと思った? でも実は僕の姉が主任と結婚してるんで。主任は義理の兄なんです」
「すごい偶然なんですね。就職先に義理のお兄さんがいるなんて」
「全然偶然でないです。僕は義理の兄のコネ入社なんで」
「あ、そうですか…」
「でもなんで精神療法断ったんですか? 外国ではそういうの割と普通ですよ」
「ここは日本です。でも精神的には疲れてるかも。トミボンって、あ、ごめんなさい湯本さんって…」
「トミボンでいいです」
「トミボンって非現実的な話とか信じないタイプですよね?」
「時と場合に依ります。それに非現実的な事に現実的な解釈を加えるのが僕の性分です」
「だったら私の経験した事にもそんな解釈を加えてほしいです。信じられないようなとても奇妙な経験したので」
「奇妙な経験てどんな事ですか?」
それで私は「実は…」とトミボンのお姉さん。つまり右田主任の奥さんが到着するまで、私が倒れた原因の睡眠不足のいきさつについて話す事となった。
十三年前と一ヶ月前の出来事を夕日で薄紅色一色に染まる病院の玄関ホールの片隅でぽつりぽつりと、所々の細かな心情は出来るだけ省きながら打ち明けた。
誰かにこうして聞いてほしかったのかもしれない。それにトミボンはこういう事を打ち明けて良いヒトだ。私は本能的にそう感じていた。
―――――――――――――――――
聞き終わった後、トミボンは静かにうなずいた。沈黙の時間が続いた。
「清田さんが見たアパートの光というのは、定期的に見て回ってる不動産の持ち主が点けたものじゃないですか。いくら昔住んでたとしても、以前の住人が勝手にもう居住してないアパートへなんか入れません」
――もし、生きている人間ならね――
と私は心の中で
「それか、夕陽がガラス窓に反射したとも考えられます。建物に近付けば、どこかの地点で夕陽の反射が起きます。いつも同じ位建物に近付いた地点でそれは起きるでしょう」
「なるほど。でも夕陽の反射を灯りだと見間違えるかしら」
「清田さんは寂しかった子ども時代の夏休みに親切にしてくれた、楽しい思い出を作ってくれたその女の人に感謝してるんですよね? でもその女の人の願いを叶えられなかった、その事を気にしてるんじゃないですか? それが錯覚に繋がったとも考えられます」
「願いを叶えられなかった?」
「海に行こうという誘いに応じなかった事です」
「海には行きたくて、でも断ろうとして返事をする前に引っ越したんです」
「はい、分かります。あ、姉さんから電話だ。ちょっと待ってて下さい」
トミボンはスマートフォンを耳に当て、玄関ホールの端に小走りで向かった。
「海に行くのがどうしたって?」トミボンと入れ替わりに入って来た右田主任だった。薬局から戻って来ていた。
「清田さんが誰かのデートを断ったかなんか? 若い頃ってそ~ゆーのあるもんだよ。相手は気にしてなかったり、忘れてたりするもんだよ」
「はぁ? 別にデートを断ったりしてませんが、そんな軽いものですかね? そんな事あったんですか?」
「海に行く約束を破った事なら自分もあるよ。中学卒業した春だったっけ」
「海に行く約束をしてたんですか?」
「約束…にはなるだろうな。中学時代、僕の事、好きだっていうストーカーみたいな女の子がいてさ、すごい追いかけ回されてたんだ。でもいろいろ教科書や宿題忘れた時にお世話になったりもしてた。で、高校受験終わったら春の海に行こうって半ば強引に約束させられちゃってさ」
「行かなかったんですか?」
「何か面倒になっちゃってさ」
――わ、最低――
私はとっさに思った事を顔に出さないようにして言った。
「そうですか」
「最低って思ったでしょ?」
「え!!」
「普通、そうだよな。でもホントせっかくの春休みに好きでもない女の子と外に出るのが面倒でさ。しかも現地集合なんだぜ」
「でもそのストーカーみたいな女の子から後で恨まれたりしなかったですか? その後どうでした?」
「高校、違ったしね。それからはあんまり追いかけ回されなくなった。まぁ高校は勉強がさらに難しくなるし、向こうはそれどころじゃなかったんじゃない?」とあっさり。
「はぁ。楽天的ですね」
この薬剤師さんの事を以前はチャラそうと思っていたけど、今回お世話になったので見直そうかという気になっていたのに、またイメージが悪くなりそうだ。
そこへトミボンが戻って来た。
「姉さんはもうすぐ着くからホールで待っててって」
「あ、ほらカミさんの車だよ、あれ」
右田主任は玄関ホールのガラス窓越しに救急外来入り口に向かう一台の白い車を見ていた。
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