第5話 夏の終わりの転機

 おばあちゃんには、「クラスの前田君と遊んでいる」とか「前田君と同じアパートのおばちゃんの部屋にもアサガオを見たり、遊びに行っている」とか正直に話していた。たまにおばあちゃんがスーパーで買ったクッキーの袋を渡して「これを遊びに行ってるお家の人に渡しなさい」と言う事もあった。でも私が大雑把おおざっぱにしか何事も説明しないタイプの子どもだった事もあって、クラスメートの家で普通に遊んでいるイメージしかなかったのだと思う。

 ある日、近所に住むおばあちゃんの友達が玄関先でおばあちゃんと話していて、私がミスミコーポの部屋に入っていくのを見たという話になったようだった。そしておばあちゃんは私にあらためて知らない人の家に訪問しているのかといた。私はおばさんは前田君の部屋の上の階の住人で仲良しだから知らない人でないと言い張った。でも二人の反応はビミョウだった。そして「あの辺には水の世界の人が…」等と話していた。

 私は水の世界という意味が分からなかったので、「あの人はもしかして人魚?」と想像したりもした。

 ずっと後になり水商売の事と分かったけど、それでもその言葉はあのミルクセーキを作ってくれていた女の人とつなげては考えられなかった。

 それでもその事があったせいか、しばらくしておばさんがミルクセーキを渡しながら言った提案に私は戸惑った。


「ねえ、いつがいい?」


 おばさんから聞かれて私は「え?」と聞き返した。


「あら聞いてなかったの? 海よ。ほらいつか海に行こうって話してたでしょ?」


 海という言葉がとても遠くに離れたところにあるように感じられた。


 元々海という言葉に私は他の子のようにウキウキワクワクといったイメージはなかった。

 以前住んでいた場所が海沿いの工場地帯の街で、海と言えば寒々しい荒波のぶつかる場所というイメージだった。

 それに八月も中旬を過ぎ、お盆過ぎの夏の終わりに海に行く人はその当時住んでいる地域ではあまりいなかった。

 おばさんは「ね、どう? サンドイッチやジュースを持って行くの」

 私はこの間のおばあちゃんの困った顔を思い出していた。あからさまにこのアパートに行くなとは言われなかったけど、保護者の知らない家に行くのは好ましくないよと渋い顔で言われた。

「前田君は海にいっしょに来るの?」

 私がくと、「とおる君も行けるといいけどね」と少しにごす感じだった。

 私はおばさんに「考えさせて…」とまるで大人のような返事をした。でも戸惑いは隠せていなかったと思う。


 私は次の日も海行きの事を考えていた。楽しいかもしれないな、とかおばあちゃんは反対するだろうな、とか。


 ところがそれから私には大きな転機が訪れた。まず夏休みもあと半月という時期に私は夏風邪をひいて寝込んでしまった。寝込んでいる間も私にはおばさんに海に誘われた事の返事をしていない事がずっと気にかかっていた。

 私は夏休み最後の登校日を風邪で欠席する事になった。やっと床から出られるようになった時、両親が大きなニュースを伝えに来た。

 お父さんの会社の新しい支社が近畿地方に出来、十月からそこへ異動する事が正式に決まったので家族で引っ越すというのだ。しかも私は学校が中途半端になるといけないから、すぐにお母さんや弟と引っ越して向こうの小学校に転入し、そこでお父さんを待つように言われた。弟は元々もともと八月中に退院の予定だったし、第一引越し先の都会には専門の大きな病院もあると言う。お父さんとお母さんは安心した様子で、そんな両親の久し振りの笑顔を見るのはうれしかった。

 最初こそ今の学校を離れる事への不安と悲しみがあったものの、そこは子どもで、私は引越し先の都会を紹介した写真を見ているうちにわくわくしてきた。新しく行く都市には大きな水族館や動物園もあった。陽光を浴びた海が暖かそうに写っていた。

 夏風邪が良くなって外出した土曜日の午後、坂道を降りてミスミコーポの前に立ったけど一階に前田君の姿はなかった。また二階の部屋をベランダ越しに見ても、そこにも室内に人の気配はなかった。私はしばらくそこに一人佇たたずみ待ったけど、前田君もニ階の住人も帰って来る気配はなかった。夏の終わりの午後は不思議なくらい静かだった。

 それから私は仲の良い友達に電話で挨拶し、他のクラスメート達への挨拶は先生経由のハガキで済ませ、新しい土地へと期待をふくらませて向かったのだった。前田君とも、ミルクセーキを作ってくれたおばさんやさやちゃんとも二度と会う事はなく…。



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