第1話

 ぐしゅんと盛大にくしゃみをすると、意識がはっきりした。

 頬杖をついていた。勢いで顎が手のひらからずり落ちる。机に顔面を思い切り打ち付けた。ざわざわ。声が聞こえる。

 目を開くと、瞬は塾の講義室にいた。教室にいる全員が瞬の顔を見ている。


「すごい音したぞぉ、荒家あらいえ


 講師の言葉とともに、生徒がわっと笑い出す。瞬は痛む鼻を抑えながら苦笑した。


「瞬が寝るなんて珍しいな」


 講義が終わったあと、隣の席にいたいつが声をかけてきた。二人で真っ直ぐ談話スペースに行く。迎えがすぐに来ない塾生はここで待機する決まりだ。瞬はいつもこの時間を逸希と過ごしていた。

 ぶつけた鼻が相変わらず痛い。確かに痛い。これは夢じゃない。だとすると。


「あっちが夢だったのかな」


 ガードレールにべったりと付着した赤黒い血。ゴム人形のように重く動かなくなった真耶の身体。ついさっきまで目の前にあったはずの光景だ。温度も臭いも覚えている。

 ぞわ、と背筋が寒くなった。背筋だけではない。空気がしんと冷たい。


「なんか寒いな」


「そう? 3月ってこんなもんじゃね?」


「へ?」


「風邪か?」


 3月?

 その言葉だけが気になった。


「ちょっと待った。今日って」


 ずっとカバンに入れっぱなしだったスマホを見る。

 3月18日。


「えぇえ」


 思わずスマホを落としそうになった。

 おかしい。今日は4月7日、新学期が始まる日だったはずだ。逸希や真耶と春休みを過ごした記憶もある。これは一体。


「逸希」


「どした?」


「俺、タイムリープしてるかもしれない」


 混乱していた。高揚していた。わけのわからない不思議な出来事の中心に自分がいるかもしれない。

 逸希はぽかんとエサを喰う直前の金魚のような顔をした。束の間の沈黙の間に瞬は悟る。これは笑われる。


「タイムリープ? お前が?」


 予想どおり、いやそれをはるかに上回る勢いで逸希は笑い出した。腹を抱えて、ひぃひぃと息まで苦しそうにしている。

「そんなに面白いか」


「いやっ、ち、ふふふははッ、つ、ツボ、ツボった」


 顔が真っ赤である。


「え、どこに?」


 逸希の笑いが収まる間に瞬も冷静になった。だが、冷静になったところで疑問は解消されない。記憶と時間が断絶している。時間が未来に進んでいるなら記憶の欠落だと思ったのかもしれないが、あろうことか過去に戻っている。タイムリープしたと考えるのはむしろ妥当だった。

 逸希の笑い声がようやく止んだ。


「いやあ、ごめんごめん。笑ってるうちに止まらなくなることって、あるじゃん」


「あるけども。なんで今」


「さっきの、瞬がくしゃみして机に顔ガーンってしたのが今さら浮かんできて」


 ふ、ふ、とまた逸希の呼吸が乱れそうになる。

 瞬は慌てて逸希を落ち着かせようとした。


「寝てたんじゃないんだ。その前まで4月7日にいたんだよ、俺」


「4月7日? 新学期が始まる日か」


「そう。珍しく真耶が早く起きてきて、一緒に登校することになったんだ。俺は2人並んで道を歩くのが、は、恥ずかしくて、ちょっと距離を空けて歩いた。そしたらバイクが」


「死んだ?」


「え」


 唐突な逸希の言葉にドキリとする。


「なんで?」


「タイムリープのきっかけってだいたい誰か死ぬことじゃん」


「俺の話、信じるの?」


「いや、仮定の話としてはおもしろいなぁって」


 そうだ。仮定。なにがなんだかよくわからないが、瞬もそのくらいの気持ちでこの状況を受け入れようと思った。


「てか、あれだな。瞬は真耶のためなら未来を捨ててもいいんだな」


 未来を捨てる?

 よくわからなかった。


「そこまで考えたことない」


「ほう。じゃ、どこまでなら考えたことあるんだ」


「なんの話だよ」


「お前は本当にわかりやすいやつだな」


 顔が熱くなる。瞬は痛む鼻を触るふりをしてごまかした。


「妹だから、大切に思うのは当然だろ」


「それはどうかな」


 ふうと息を吐いて、逸希は窓にもたれた。長い前髪が表情を隠す。学校に通っていたら間違いなく注意される長さだ。瞬はふと思う。もう誰もあまり触れない話題がある。だが誰かが触れなければ逸希が自分から話すことも絶対にない。


「お前、そろそろ学校来ない?」


 逸希が中学に来なくなったのは去年の10月からだ。そろそろ半年が経つ。


「なんで?」


 逸希は露骨に不機嫌そうになり、口をへの字にした。


「新学期だし、クラスも変わるよ」


「俺は別にあのクラスがいやだったんじゃない。学校自体がめんどくさくなっただけだ」


「内申とか、どうすんだよ」


「成績である程度は挽回するよ。推薦狙ってるわけじゃないし」


「今年は修学旅行もあるのに」


「一緒に行きたいの? 俺のこと好きか?」


「真耶だよ真耶! 真耶が、お前も一緒だったら喜ぶと思うから」


 前髪を払って逸希が瞬を見る。なにかを諦めたような顔で笑っていた。


「迎えが来たみたいだぜ、シスコン」


 窓の外を指差す。

 話を逸らされた。

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