第20話

 廃墟と言って差し支えない。汚れてくすんだ白い3階建てのビル。1階部分は駐車場、2階と3階はかつてゲームセンターだった。今は見る影もない。ガラスというガラスは全て割られ、駐車場にも壊れたゲームの筐体が転がっている。


 真耶はその駐車場の隅に立たされていた。

 対面に、痩せた茶髪の男がしゃがみこんでいる。その間に、剃りこみの入った大柄な中学生。真耶をここに連れてきた男子だ。後輩には半グレ、マイルドヤンキーと呼ばれてうとましがれている岩田先輩。

 茶髪の男はタバコの煙を吐き出して言った。


「いきなりLINEブロックってひどくね?」


 確かに怒っているのだろうが怒っている感じがしない。情けない声だと真耶は思った。


「ごめんなさい」


 真耶は軽率だった自分を悔いていた。だからこそ一人で岩田に連れられてきた。今日も生徒玄関に行けば瞬が待っていただろう。わざと会わないようにした。一人でなんとかすべきことだと思った。


「鬱陶しかった?」


 男が聞く。


「正直」


「はぁ。ならさぁ、言えばいいじゃん。いきなりブロックはないってマジで。俺、結構傷つきやすいの。夜も寝れなくてさぁ。バイト休んじゃったし」


 ぐしゃぐしゃとタバコを地面にこすりつける。火が消えても続ける。ボロボロの屑になるまで続ける。

 真耶は少し怖くなった。


「もう、私に構わないでください」


「はぁ?」


 男は突然立ち上がった。


「なーんでいきなりそうなるのぉ?」


 こらえていたつもりが、肩がびくりと震えてしまう。

 男は大きくタバコくさい息を吐いた。


「わかったよ、すぐに付き合えとかもう言わないからさ。これからもふつうに遊んだりしようよ。ね?」


 ゆっくりと首を横にふる。


「無理、もう。ごめんなさい」


「え~~~~」


 男は間延びした声を出した。子どものようだ。6つも年上のくせに。


「なに? やっぱ彼氏できたんでしょ? 昨日の帰り一緒に歩いてたやつ?」


 見られていたという事実に戦慄する。いつ、どこから見ていたというのか。

 男の傍らに止めてある黒い車に目をやる。どこにでも走っていそうな黒い軽自動車。昨日もあれに乗って近くをうろついていたのかもしれない。

 真耶は努めて冷静であろうとした。


「昨日一緒にいたのは、兄です」


 男は舌打ちをした。


「バレる嘘つくなよ。中学にもなって一緒に帰る兄妹とかいるわけねーじゃん」


「あ、あのぅ、先輩」


 両腕を身体の前で組んで立っていた岩田が、ひょこっと頭を低くして会話に入ってきた。


「こいつ同級に兄ちゃんいるんスよ。親の再婚で、血ィ繋がってないけど」


「は? なにそれ。他人よりタチわりいじゃん。てかそれ兄貴に絶対狙われてるよ真耶ちゃん。中学生で血ィ繋がらない女子と同居でしょ? 絶対キモい妄想とかされてるよ。下着とかなくなってない?」


 真耶の中でなにかが突然沸点を超えた。


「そういうこと言わないで!」


 思わず大きな声が出た。

 まずいと思う前に平手打ちをくらった。

 頭がぐわんと揺れるほど強い衝撃だった。


「あ~ぁ。やっちゃった。けど謝んないからね。グーじゃないあたり優しくない? 女に馬鹿にされんのマジ無理なの俺。しかも中坊だし」


 男は真耶を打った手をひらひらさせた。真耶の好感度を落とす結果になったことは悔いているが、殴ったことについてはなんとも思っていない。


「前々から思ってたけどさぁ、大人ナメすぎだよ真耶ちゃん。1回痛い目見たほうがいい。これから社会に出ていくんだし、ね」


 殴られた頬の痛みはあまり感じない。殴るほど怒っているのにへらへら喋り続ける男が怖かった。

 男は先ほど消したタバコの吸い殻を踏みつけて、真耶に近づいた。


「俺、今日車で来てるから。親のだけど。とりあえず乗って」


 乱暴に腕をつかまれる。


「やだっ!」


 本能的に身体が動いたが、つかまれた腕は全く自由にならなかった。


「先輩、さすがにまずいっすよ中学生は」


 岩田が怖気づいている。半グレのマイルドヤンキーと評される妥当な反応だ。


「っせー黙って消えろや! チクったら殺すからな」


 男は岩田に向かって唾を吐いた。逃げるように苦い顔で岩田が去っていく。

 真耶は無理やり車に押し込まれつつあった。


「いやっ! 離して!」


 全力を振り絞って暴れると、キンと耳元で異質な音がした。

 視線を向けると、鈍く光るナイフが見えた。


「暴れんなよクソガキ」


 男はその切っ先を真耶の喉元に向けた。

 身体の力が抜ける。声も出なくなる。足がもつれ、車のシートに腰を下ろす形になる。どうしよう。ナイフを向けられたまま、空いた手で肩をドンと押される。シートに背中がつく。どうしよう。


 私、馬鹿だ。


「真耶!」


 声が聞こえた。

 一瞬、幻聴かと思った。来るはずがない。巻き込まないようにわざわざ裏門から出てきた。今も生徒玄関で待っているはずだった。


「あ、昨日のぉ」


 真耶の上にのしかかろうとしていた男は声に反応した。

 ギリギリのところで駆け付けた瞬は、男が手にしたナイフを見て驚いた。怯んではいけないとわかっていても足がすくむ。瞬は丸腰だった。

 ナイフで刺されて殺されると知っていたはずだ。対抗する武器を用意するべきだった。でもうちにナイフなんかないし。包丁なんか学校にもっていけないし。


「瞬ちゃん!」


 黒い車の中から、真耶の声が聞こえた。それで恐怖は消えた。

 瞬は腰を落とし、真正面から男に飛び掛かった。


「うわっ!」


 ドッと全身で衝撃を感じたあと、身体が傾く。男を押し倒した。馬乗りになって、襟をつかんで。それから。それから。

 殴り合いの喧嘩なんてしたことがない。どうしたらいいかわからなくなった。


 隙を見つけた男は瞬の顔面に頭突きをかました。顎を打たれた。眩暈がする。あっという間に瞬は組み伏せられた。


「は。よっわ。やっぱガキだな」


 男は高くナイフを持った腕を掲げた。

 全ての行動に躊躇がない。この男は人を殺し得る。刺される。そう思った。


 瞬間。


 男の頭に棒状に伸びた折りたたみ傘が叩きつけられた。フルスイングで。

 ザっと黒い影が瞬の視界に現れる。

 身体が自由になった瞬は、すぐに体を起こした。

 影はひたすらに男を殴りつけていた。男がひるんだのを見てとると、ナイフの刃を無造作に左手でつかみ、それを奪い取った。

 刃先を男の喉に押し当てる。男は抵抗をやめた。


「弱いガキ相手にこんなもん使ってんじゃねーよクソが」


 逸希だ。


「逸っちゃん!」


 車の中から、転がるように真耶が出てきた。


「警察、電話」


 逸希が言う。瞬は咄嗟に動き、指示どおり警察に通報した。


 男は逮捕された。

 真耶は無事だった。

 瞬は顔面の軽い打撲、逸希は手のひらを切った。怪我をさせてしまった。


「俺、弱いな」


 青と赤の光を飛ばすパトライトを眺めながら、瞬はつぶやいた。


「お前が苦手な部分は、俺が補う」


 左手を大きなタオルでぐるぐる巻きにした逸希がぽつりと言う。

 瞬は目を見開いた。


「来週から学校、戻るから」


 無事な右手で、少し照れくさそうに鼻を掻く。

 瞬は自然と笑っていた。


「マジで。すごい嬉しい」


「なに。俺のこと好きなの?」


「まあな」


 逸希も笑った。


 瞬はその日、希望を見つけた。

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