第4話
4月になった。
新学期が始まるまであと2日。
心も体もそわそわする。じっとしていられなくて、2時間ほど外を走ることにした。裏山の公園で休憩した後、ベンチの上でストレッチと筋トレをする。やぶ蚊にしこたま刺されてしまった。冷たいくらいの温度でシャワーを浴びたいと思った。
午後5時。家に帰り、脱衣所へ直行する。残念ながら、すでに先客がいた。着替えの服を入れるためのかごにはバスタオルがかかり、浴場からは水音が聞こえている。かごを覆っている鮮やかなオレンジ色のバスタオルでわかる。入浴しているのは真耶だ。
1回目のこの日、瞬は市立図書館に行って塾の課題をこなしていた。この時間にはまだ家に帰っていなかった。これは初めて対面する事態だ。最近、知っていることをなぞるような生活をしていたから、未知の状況に動揺する。
鉢合わせするとまずい。だが汗ばんだシャツが気持ち悪い。シャツだけは脱いで洗濯機にいれてしまおう。あとは制汗剤でしばらくしのげる。サッと脱いでパッと入れるだけだ。
瞬は汗に濡れたティーシャツを脱いだ。
こういう時にかぎって扉は開くものである。
戸が開く音が聞こえた。最悪のタイミングだ。
「わあ! ごっごめん」
咄嗟に目をつむる。見ちゃ駄目だ。上半身裸のまま腕で顔を覆う。
「わあ」
気が抜けるような声が聞こえた。シャンプーか石鹸か、瞬の知らない甘い匂いが湿度を帯びて脱衣所に広がる。
「びっくりした」
真耶は予想外に落ち着いていた。瞬の方がよほど焦っている。
「ご、ごめ、あ、汗かいたから、シャツだけ、洗濯機に入れようと思って」
手探りでシャツを洗濯機に放り込んで脱衣所を出ようとする瞬を、真耶は止めた。
「待って。そこにある青いやつとって」
「あおいヤツ?」
青いやつとはなんだろう。目を開けずには探すこともできない。瞬は真耶がいる方向へ背を向けつつ、おそるおそる目を開いた。眼前に洗面所の棚が見える。青いやつ。青いやつ。青いやつ、とは。そもそもなにものだ。
真耶が助言をくれた。
「そこにある、ちっちゃい四角い袋。この前美容室でもらったシャンプーの試供品なの。使おうと思って忘れてた」
視界に、にゅっと白い腕が現れた。棚の中段を指差している。白い。細い腕。肌が水をはじいている。瞬は無心で指の先を辿った。
青い、ちっちゃい、四角い、袋。それらしいものを見つけた。
「これ?」
「その隣」
「これ?」
「それ! ありがと!」
手に取って渡す。濡れた指が触れた。雫が瞬の指にも絡む。手の中の湿り気をどうしたらいいかわからなくなった。ぎゅっと拳を作って、隠すように握りこむ。
「ごめん、み、見なかったことにするから」
実際なにも見ていない。なにもではない。白い腕は見た。でも見ていない。見ていないことにする。それを主張しなければいけない気がした。
すると真耶は突然ケラケラと笑い出した。風呂場に声が反響する。
「お父さんと同じこと言ってる」
同じこと?
見なかったことにする、の部分だ。そこしかない。
瞬は混乱した。父が真耶の風呂場を覗いたとでもいうのか。
「先週ね、お父さんが歯みがきしてる時にお風呂入ってたの。その時は石鹸が切れてたんだ。で、私が扉あけちゃって、お父さん、ちょっと慌ててた」
そういうことか。そういうことだろうとは思ったけど。
なるほど。先週そんなことがあったから真耶は脱衣所に瞬の姿を見つけても落ち着いていたのだ。納得はいったがなぜか悔しいような気分になる。
「で、も。お兄ちゃんの方がリアクションは
「どういうこと?」
「ふふふん」
背後で扉が閉まる音が聞こえた。再度シャワーの水音が響きだす。真耶は小さく歌を口ずさむほど上機嫌だった。
父はどんな反応をしたのだろう。気になってしまう。もっと冷静に、スッと石鹸を手渡して去ったのだろうか。それに比べると自分はひどく間抜けに見えたにちがいない。
握りこんだ拳を少し開いて、そうするべきでないと思うのに鼻に近づけてしまう。微かに石鹸の匂いがした。すぐに正気に戻り、脱衣所を出た。
真耶は妹だ。最近急に成長したから違和感があるだけで。妹。妹だ。意識するな。
そう思えば思うほど意識せずにはいられない。
しかし夕食後、瞬は一連の出来事をすぐに忘れた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます