第29話


 運転席にいた母は事故の衝撃で破水し、緊急に出産の準備が整えられた。

 後部座席に乗っていた瞬と逸希は軽傷ですんだ。

 最も破損の大きい助手席に乗っていた真耶は頭を強く打ち、意識不明の状態に陥った。

 息苦しい時間がゆっくりと流れた。

 駆け付けた父と、瞬と逸希。3人で、一言も口を利かずにただ時が過ぎるのを待った。


 その日の深夜、日付が変わった頃。

 母は無事出産を終えた。早産だが子は健康だという。母体にも大事はなかった。


 真耶は目を覚まさなかった。


 鎖骨と胸骨の骨折やガラスによる裂傷は、すべて命に係わるものではなかったが、頭部を打撲していた。

 手術は丸一日続いた。瞬も逸希も一睡もできなかった。

 ぼんやりと眺めていた手術中のランプがふっと消え、中から医師が出てくるのさえ、瞬には幻のように見えた。


「娘さんは生きています」


 医師が父に告げた言葉を聞いて、逸希は驚いた。事故にあった時点で真耶は死んだとほとんど確信していた。で真耶が死ななかったことは今までになかった。


「ただ、意識が戻りません」


 なにも言えなかった。医師が続けて言葉を紡ぐ。


「目を覚ます可能性はあります。ただそれが明日なのか、一週間後か、もっと先なのかはわかりません」


 同じ医師である父はようやく何事かを話し始めた。話の多くを瞬は理解できなかった。自発呼吸ができない状態で延命治療を施さなければいけない。それだけが聞こえる。


 父は変わらず仕事を続けた。田舎町にある数少ない耳鼻咽喉科には連日多くの患者が訪れる。父は仕事後はもちろん、午前の診療が終わった合間の休憩時間にも病院に来て、真耶の様子をうかがった。真耶の目が覚めるまで、これからもそんな生活を続けるつもりなのだろう。父はわずか数日で、驚くほど痩せた。

 2日欠席して学校に戻った瞬は、まず結子と千世太に状況を報告した。2人は顔を青くして話を聞いていた。


「意識不明、か」


 千世太が重々しくつぶやく。


「お見舞い、行ってもいいの? まだ駄目?」


 焦ったように結子が聞く。


「いや、もう大丈夫だよ。色んな人が話しかけたりするといいらしいから。時間があるなら来てほしい」


 放課後、3人で真耶の病室に行くと、中に逸希がいた。


「よう」


 逸希は今日も体調が悪いと言って学校を休んだ。気持ちはわからなくもないが、父が懸命に日常を維持しているのを見ると、甘えてはいられないと瞬は思う。


「明日は学校、来いよ。キツかったら早退してもいいから」


「うん」


「結子と千世太が来てる」


 瞬の後ろから2人が顔をのぞかせる。横たわる真耶の姿を見てショックを受けていた。


「そっか。じゃ、俺は母さんの方見てくるよ」


 逸希は部屋を出て言った。

 代わりに結子と千世太が入ってくる。


「真耶」


「真耶、私だよ。結子だよ」


 2人は交互に話しかけた。

 修学旅行が悲惨だった代わりに、卒業旅行に行こう。今度はとびきり天気のいい日に。


「どこがいいかなぁ。あ、そうだ。真耶は前から海に行きたがってたよね。今年の夏は行けなかったから、来年行こっか。海水浴」


「ほかにも、いろんなとこ行こうぜ。写真もいっぱい撮って、大人になったら見返すんだ。それで、こんなこともあったなっつって笑ってさ」


「待ってるからね、真耶。早く、起きてよね」


 翌日には新谷が見舞いに来た。

 次の日にはバスケ部の仲間が。その次の日は再び結子と千世太が。

 毎日代わる代わる、誰かが来ては真耶の回復を願っていった。


 そして、1週間が経った。


 火曜日の放課後。

 今日は誰も来ていない。父の仕事が終わるまで、まだ時間がある。

 夕日が差し込む病室。瞬は真耶の傍らに座っていた。


「昨日さ、生まれてきた子を初めて見させてもらったんだ」


 小さな赤ん坊は、事故の衝撃で生まれてきたとは思えないほど健やかに眠っていた。


「聞いてたとおり、女の子だったよ。ちっちゃくて、肌が赤くて、ほんとに赤ちゃんって感じ。母さんも、もう元気だ。明日、ここに来てくれるって」


 母は娘への心配を糧に力強く回復していった。事故について責任を感じているのは明らかだったが、瞬の前では弱いところを見せたり、泣いたりしなかった。


「赤ちゃんの名前も決まったよ。半年くらい前、有加里さんに案を聞かれて、俺が言ったやつだった。俺、名付け親になっちゃったな」


 生まれてくるのが女の子だとわかった時、なにげない会話の中で尋ねられた。瞬は丸一晩かけて考えた。


「マキっていうんだ。真耶と逸希から一文字ずつもらって、真希。俺の名前は漢字一文字で『瞬』だから、取りづらいだろ」


 単純な発想だったが、母は喜んでくれた。アイディアを聞くと父も賛成してくれた。真耶と逸希に言えなかったのは、照れ臭かったからだ。


「真耶にとってははじめて下の兄妹ができるんだよ。あの子は、真希は、ただ父さんと母さんの新しい子どもってだけじゃない。真耶の妹だ」


 妊娠の知らせを聞いた時、取り乱した真耶の姿を思い出す。まだるの、と言った。それでも真耶は妹をきっと歓迎する。瞬にはわかっていた。

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