もっとふつうに

加登 伶

はじまり

 朝の慌ただしい時間。妹が台所で食器を洗っている。シンクを打つ水の音。陶器の茶碗とガラスコップがぶつかりあう音。少しうるさい。雑な洗い方だ。

 しゅんはそれを玄関で聞いていた。框に腰かけ、スニーカーの紐を結ぶ。脱ぎやすいように両足ともややゆるくしておく。教科書を入れた重いカバンを持って立ち上がった時。


「待って、おにいちゃん!」


 まだ新しい家の壁に反響する高い声。同時に、ずざぁとフローリングの床をくつ下で滑ってくる影。妹が玄関に現れた。


「ねえ、スカート短くない?」


 妹はスカートの裾を指で示して、くるんとその場で一回転した。紺のプリーツスカートがふわりと広がって、隠れていた腿の部分が一瞬見える。日ごろ陽光に晒されているふくらはぎよりも幾分肌が白い。瞬は目をそらした。


「短くも長くもないと思う。ちょうどいいんじゃない?」


「えぇ~。ちょっと短いくらいがいいんだけどなあ」


 なんと答えればよかったのだろう。女子中学生の心は複雑である。


「じゃ、俺先に行くわ」


「えっ! 一緒に行こうよ。私寝起き悪いから一緒に登校とかめったにないよ。超レア。ウルトラレア。この機会を逃すなんて勝負師じゃないね」


「いや勝負師じゃないし」


「いいから、ちょっと待ってて。すぐだから!」


 言うだけ言って妹は洗面所に籠ってしまった。10分も待った。朝の10分は貴重である。再び玄関に現れた姿は、瞬には先ほどとあまり変わらないように見えた。見えないところでなにかが変わっているのかもしれない。見えないところというと服の下になる。いや。なんでそんな考えが浮かぶ。瞬は自分を軽蔑した。

 だがそんな思いがよぎるほど、ここ最近妹の成長は著しい。去年と比べて明らかに身長が伸びた。脚が特に伸びた。気ままにハネていた髪も、つるんと艶を持ち、真っ直ぐ下に落ちている。そうか髪を真っ直ぐにしていたのか。


「ふふーん。新学期ってわくわくするね」


 家の鍵を閉めながら妹が笑う。二人並んで通学路を歩き始めた。

 並んで歩くとわかる。歩幅の差で、ふつうに歩いていると妹が遅れてしまう。すぐに人ひとり分くらいの距離が空いた。


「おにいちゃん、歩くのはやい」


 困った顔でトコトコと歩いてくる妹が面白かった。


「ぴったり並んで歩いてたら目立つだろ」


「わあ、そんなこと気にしてるの? 思春期ぃ」


 真耶は歩きながら、まだスカートの丈を気にしていた。スカートの長さをいつまでも気にしている方がずっと思春期っぽいと思いながら、瞬は歩調をゆるめずに歩き続けた。事実、仲良く並んで歩くのは少し気恥ずかしかった。

 二人は信号のない交差点に差し掛かった。端の塗料が剝げた横断歩道を踏んで歩く。


 その時。


 獣が唸るようなエンジンの音がすごいスピードで近づいてきた。さっきまで見えなかった黒いバイクがざっと瞬の真横をかすめて通り過ぎる。


 直後、バアンと背後で大きな音が聞こえた。


 振り返る。瞬から遅れて、今まさに横断歩道を渡ろうとしていたはずの妹。

 そこに突っ込んだ黒い車体。


 妹。


 妹はガードレールの下に倒れていた。


 駆け寄って名前を呼ぶ。


真耶まや


 返事は二度と帰ってこなかった。呼吸も心拍も止まっていた。

 妹は死んだ。

 救急車を待つ間、足のつけ根までずり上がったスカートの裾を、瞬は下げてやった。

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