第9話

 新学期が始まる日。


 瞬の覚悟は裏切られた。


 朝も夕方もなにも起こらなかった。なにも。

 登校時、例の交差点はもちろん学校に着くまでの道中ずっと、瞬は黒いバイクなど見なかった。


 真耶の不信そうな目に耐えつつ帰りも一緒に歩いた。トラックは何台か通ったが、どれも極めて安全運転だった。なにごともなく学校に行って、帰って来てしまった。


 これはどういうことだろう。


 混乱が解消されないまま、日々は以前のように流れはじめた。念のために毎日真耶を送り迎えするだけの日が続いた。真耶はいい加減に瞬を過保護、過干渉だと鬱陶しがるようになった。未知の危険よりも今目の前にいる妹の意志の方が切迫した物事のように思えて、瞬は送り迎えするのをやめた。それでもやはり、なにごとも起こらなかった。


 無事5月になった。

 瞬はサッカー部に所属している。ある日の練習終わり、結子と会った。


「おっ。瞬ちゃん、おつかれー」


「おう。おつかれ」


 結子は真耶と一緒に女子バスケ部に入っている。だが真耶の姿はどこにも見当たらない。


「真耶は?」


 一緒に登校しなくなって以来、真耶はまた寝坊癖を発動させていたから、登校しているかどうかはわからない。だが今日は教室移動の時に姿を見た。学校に来ていることは間違いない。


「うぬぅ。それが」


 結子は瞼を伏せた。ふいに、近くにいた同じバスケ部の仲間のもとへ走っていく。簡単になにか話して、すぐに戻ってきた。先に帰ってくれと言ったのだろう。


「今日一緒に帰らない?」


 瞬はうなずいた。結子と同じく、サッカー部の仲間に別れを告げる。結子と一緒に帰り道を歩き始めた。


「真耶がさ」


 学校が見えなくなるところまで歩いて、結子が話し始めた。


「先々週、くらいから、ぱったり練習来なくなっちゃったんだよね」


「え」


 瞬が送り迎えをやめた頃からだ。それ以来真耶がいつ登校し下校しているか、瞬は知らない。


「2年になって、私、クラスが別になっちゃったから、あんまりよく知らないんだけど」


 真耶と同じクラスの子に聞いたらしい。授業もよくサボり、遅刻も多い。そしてクラスで少し孤立しつつあるという。


「LINEとかで聞いても『たいしたことじゃないから気にしないで』って言うだけなの。なんにも教えてくれない。ねぇ、瞬ちゃん、なんか知らない?」


 瞬はなにも知らなかった。

 知らない、と答える以外できなかった。

 同じ家に住んでいながら、瞬は結子よりも真耶のことを知らなかった。未知の危険に気を張るばかりに、目の前のことが全く見えていなかった。

 真耶もふつうの中学生だ。ふつうに、日ごろの動向にも注意してやらなければいけない。


 翌日放課後、瞬は真耶の担任教師のもとを訪ねた。

 今年真耶の担任になったのは新谷しんたに一馬かずまという名の、若い国語教師だった。

 職員室の入り口で礼をして、新谷の机に近づく。新谷は瞬の顔を見て微笑んだ。まだ名乗ってもいないのに、迎え入れてくれているとわかる。優しく穏やかなタイプの教師だ。女子に「かわいい」と、からわかれていそうな顔である。


「新谷先生。僕、先生のクラスの、真耶……荒家真耶の兄です」


 言うと、新谷はぽんと軽く手を叩いた。


「ああ! 荒家瞬くんだね」


 新谷は瞬の名を知っていた。おそらく真耶の兄として把握していたのだろう。黒いプラスチックフレームの眼鏡を指で1度押し上げる。


 話がしたいと言うと、急なことにもかかわらず、新谷は瞬を応接室に通してくれた。茶まで出してくれる。


「僕も1度、瞬くんと話したいと思っていました」


 笑顔でごまかされているが、新谷は少し疲れているようだった。


「妹の様子は、どうですか」


 瞬は思い切ってストレートに聞くことにした。新谷がうーんと悩みだす。


「正直、なんの問題もない、とは言えないね。まあ問題なんて誰にでもあって当たり前だから、全然、変なことじゃないんだけど」


 結子から聞いた話を尋ねると、新谷はそのとおりの状況だと答えた。

 もしかしたら瞬がしつこく送り迎えしたのがよくなかったのかもしれない。過保護にされたことで自尊心が傷ついて、反発したくなったのかも。

 新谷にそのことを話してみた。笑って否定してくれると思ったが、新谷は無言だった。口元だけで微かに笑って、瞬の目を真っ直ぐに見る。


「たった1か月だけど、僕が気になったことを話すね」

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