第34話


 実を言うと、今回私は全くの無策で王子の別荘に乗り込んだ。

 タニアたちに案を示して説き伏せたわけでもない。むしろ言うだけ言って強引に出て行ったようなものだ。


「二人が私を心配してくれるように、私もジュリアス様が大切だから」


「だからお願い。行かせて」


 と、そんな感じのことを。



 我ながらよく押し通せたものだと思う。

 というか、どうかしていた。

 ジュリアスと王子が殺されない見立てはあっても、他にどんなことをされるかわからないのに。


 ……ただ、ジュリアスを助けたい。先走るその思いだけは、偽りなく、何よりも強いものだった。







 ジュリアスは恭しく頭を垂れ、立膝の姿勢で剣を受け取った。

 光の鎖はすでに解かれている。

 彼は立ち上がり、ゆっくりと振り向く。

 けれど、その目は私を見ていなかった。


「ジュリアス様……」


 夜会でのエリオットと同じうつろな表情。

 生気のない口調で彼は宣言する。


「……一突きだ。一突きでこの娘の命、奪ってみせよう」


 「この娘」として指し示された剣先は、私に向けられていた。


「そんな……」


 まさか、信じられなかった。

 誰よりも強い我を持つ彼が、魅了の魔力に侵されてしまうなんて。


 ディートリンデの魅了の力が、血の力が強いジュリアスにも通じるのかは今まで明らかでなかった。

 実証のしようが無かったことだけど、魔力を流し込まれた瞬間、あるいは耐えうるんじゃないかという一縷の望みも頭によぎった。

 しかし、目の前の光景は無残にもそれを否定する。


 ディートリンデはこらえきれないように体を震わせ、声を弾けさせた。


「うふふふふ……そうよ、その顔! あなたのそんな絶望の顔が見たかったの! 愛する者に裏切られて、その男の手で地獄に落ちる……こんな悲惨な死に方が他にあるかしら?」


 自分の体を搔き抱き、身もだえする令嬢。

 総大司教はそれには関心がないように彼女を呼び止める。


「お楽しみのところ悪いが、いいかな」


 老体の手にはワイングラスが一つ握られていた。

 それをジュリアスに放り投げ、ジュリアスは片手で受け取る。


「……これは何だ」


「知っていると思うが、我々の望みは君の寵妃の血だ。そのグラスの中に、是非とも君の手で“美酒”を注いでくれないかね」


「……」


 ジュリアスはグラスに視線を落とした後、ディートリンデを見る。


「言う通りにしてあげなさい」


 令嬢がそっけなく許可を出すと、ジュリアスは深々と了解の一礼をする。 

 そして、彼がこちらに一歩を踏み出した時、私の鼓動が跳ね上がった。


「ひっ──」


 こんなことは初めてだった。

 怖い。

 怖くて、恐ろしくて。どうして身体が震えてしまうのか。

 野盗に襲われた時も、ジュリアス捕縛の報を聞いた時もここまでじゃなかった。

 

 私の後ろには誰もいない。いたはずの彼が、心を許した人が、得体の知れない何かに変わってしまった。

 その事実が、こんなにも恐ろしい。


「おっと、これはいかん」


 後ずさった私を見て、総大司教が腕を振った。

 ジュリアスを捕えていたのと同じ光の鎖が、今度は私の自由を奪う。

 両手両足を絡めとられ、鎖の先端は壁と天井に突き刺さり、胸を開いた状態で拘束される。

 

 ジュリアスがまた一つ、歩みを進める。


「ド素人の歩き方じゃないか。そんなので刺せるのか?」


 騎士団長オートマルトがうんざりした様子で口を開く。

 ジュリアスは振り返らず答える。


「刺せるかどうかそこで見ているといい。我が剣技の妙、とくとご覧に入れる」


(……え?)


 さらに一歩、ジュリアスは前へ。


「心臓を一突きだ」


 今度は私を見て言った。

 右手に持った銀の剣は、胸のあたりに高さを合わせて。


「ジュリアス様……?」


 私の呼びかけには答えない。

 ただ、この瞬間、私の胸には一つの疑念が生じていた。


 ジュリアスの真意がどこにあるかはわからない。

 けれど、今の言葉。

 もしかして、彼は。


 私は意を決して、もう一度主の名を呼び、語り掛けた。


「……ジュリアス様……ここに来る前、エルネスタさんのことを聞きました」


 一瞬だけ、動きが止まる。


「タニアが教えてくれました。あなたがどうして他の寵妃を持とうとしないのか。どうして私を助けてくれたのかも、全部」


 彼は再び進み出し、銀の刃が近付いてくる。

 けれど、私は言葉を途切れさせることなく続けた。


「嬉しかったです。ジュリアス様が優しい方だってわかったから。今までのあなたの行いが、思いやりゆえだとわかったから。命を救っていただいて……お傍に置いていただいて、本当に、感謝しています」


 ディートリンデが「遺言かしら?」とせせら笑った。

 何でもいいと思った。彼の耳に届いているのなら。


「ただ、少しだけ残念な気持ちもあります。私は……解呪の血があるからこそ大事にされていたんだなって。この血の特性がなければ……私はあなたに肩を抱かれることもなかった」


「……」


「いいんです。私自身に大した価値が無いことは、自分が一番知っていますから。だから、いいんです。今はまだ、このままで。でも──」


 言いたかったことがある。

 タニアに話を聞いてから、伝えたい思いがあった。

 それはもっと穏やかな時に、真摯に伝えるつもりだった。

 けど、こうして言葉を紡ぐうち、だんだんと思いは募り、私の中で抑えきれなくなっていく。


「──それでも。いえ、だからこそ……言わせて下さい。差し出がましいとわかってます。でも、これだけは譲れないんです。だってそれは……あなただから。大切な人のことだけは……決して、譲れない」


 私は誓う。

 目の前の大切な人に、高らかに宣誓する。

 この思い、叶えたい願いを。


「私は……いつの日かあなたを振り向かせてみせます。今はまだ、ただあなたの傍にいるだけの、あなたの寵妃でかまわない。それでもいつか一人の女として、きっとあなたを惚れさせてみせるから。だから見ていて下さい、ジュリアス様。これからの私を。あなたに並び立つ、ソフィアという女を──」


 いつの間にか恐怖を押し流すように、別の感情が胸を満たしていた。

 この人を愛しいと思う気持ち。

 その思いがせきを切ってあふれ出し、それを目の前のジュリアスにぶつけていた。


 今言うべきことは、これじゃなかったのだけど。

 この場を切り抜けるために、彼の意思を確かめ、それに応じる言葉を言わなきゃいけなかったのだけど。


 でも、この流れなら、きっとわかってくれるだろう。


 私はすべてを彼に委ねることにした。


「あなたを……信じています」


 切っ先が左胸にあてがわれる。

 剣と地面を水平に。左手を刃の進行方向に添え、刀身を腕にすべらせるようにして──



 ジュリアスは銀の剣で、私の胸を貫いた。


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