第10話
「ああ、アル! アル!」
リリィは我を忘れたかのようにその狼のもとに駆け出していた。
先ほど泣いていのたと同じくらい、あるいはそれ以上に取り乱している。
白狼は彼女に気付いたらしく顔を向けるが、次の瞬間何かに押さえつけられたかのように低く唸ってその場に伏せる。
「アル……!」
もう一度名を呼ばれるも、今度は反応すらしない。
代わりにディートリンデがその前に立ち塞がって言った。
「大声ではしたないこと。サラドゥアンの寵妃として恥ずかしくないのかしら、リリィさん?」
「ディートリンデ様! どうしてアルをこの場に連れてきたのですか!」
リリィは負けじと大きく声をあげた。
どうやらアルというのは白い狼の名前のようだ。
会話から察するに、ディートリンデが無理に連れ出して、リリィはそのことに異を唱えている様子。
その狼は金の瞳と真っ白な毛並みがとても美しく、周りの貴族たちも稀少性を知っているのだろう、魔獣を見る目に羨望の色が浮かんでいた。
ただ、いくら価値ある生き物とはいえ、夜会の場に動物を入れていいものか。
暴れ出したらそれこそ大事になるだろうし、ペットを連れた貴族など他には見当たらない。
「殿下、あれっていいんですか」
私が尋ねるとルーファス王子は「いいや」と首を横に振った。
「当然、マナー違反だよ。内輪の集まりならともかく、ああいう獣の類は公の場に連れてくるものじゃない」
「ですよね」
遠巻きに取り囲む貴族たちも、眉をひそめたり、あきれた表情のような者が多かった。
その一方で好奇の視線を向ける者や、あえて様子をうかがうような挙動の者も見られる。
前者はおそらく単なる野次馬。後者はディートリンデの利用価値を推し測っているといったところか。
「エリオット様! あなたがついていながらどうしてこのような愚行をお許しになったのですか……! アルがどれだけ人見知りするか、あなたもご存知のはずでしょう!」
そして、周囲の視線に構わず、リリィは必死の様相で自らの主へ訴える。
だが、若き伯爵エリオットは熱に浮かされたような表情で言った。
「大丈夫だよ、リリィ。アルはリンデの言うことならちゃんと聞くんだ。リンデがいれば……何も心配はいらない」
「え、エリオット様……」
「あら、嬉しいこと。さすが我が主はわかっていらっしゃるわ」
ディートリンデは気にした様子もなく、彼の腕に身体を寄せる。
しかしそれは明らかに異様な光景だった。
初対面の私が見てもわかる。エリオットは完全に正気を失っているのだ。
(グランセアにいた頃はここまでじゃなかったような……。ディートリンデの魅了の力が上がってるってこと……?)
真祖に覚醒したことでその魔力も強化されたのだろうか。
他者の自由意思を奪い、操れるほどにまでなっている。
だとしたら、それは非常に危険な兆候だ。
「アル!」
リリィは再度狼に呼びかける。すると白狼は今度は意識を取り戻したように身震いして身体を向けた。
だが、それに気づいたディートリンデは「シェラネス」とあからさまに不機嫌な声で命じ、獣は再び地に伏せる。
「間違った名前で呼ぶのはやめて下さらない? この子が混乱してしまうでしょう。この子の名はシェラネス。アルなんていう陳腐な名前ではないの」
「何を言っているのです! それはあなたが勝手に……!」
「私が見立ててあげた名こそがふさわしい名前よ。現にシェラネスはこうやって私の傍にいる。どちらが正しいか、誰の目にも明らかではなくて?」
めちゃくちゃな論理だった。
彼女が狼を付き従えているのも、サラドゥアン伯同様、おそらく魅了の力によるものだ。
その様子からすると、アルを洗脳し、リリィから奪って自分のペットとしてしまっている。むしろそれこそが誰の目にも明らかなこと。
そんな力づくで奪った結果で正しさを唱えるなんて。
(まったく、このお姫様は……)
場所が変わってもその気質はまるで変わっていないのだと、ディートリンデの横暴さに他人事ながらめまいを覚えた。
ただ、そこでまたもや白狼が、リリィに向けてのそりと体を動かす。
ゆっくりと。体に重しでもつけられたように全身を引きずりながら。
ディートリンデはそれを見下ろし、小さく舌打ちをした。
「ああ、気になるわよねぇ、シェラネス。いつまでもあんな女に主人面されて付きまとわれては」
わざとらしく白狼の頭を撫で、彼女は言う。
「いいのよ、我慢しなくても。あなた自身の手で決別の意を示しておやりなさい。きっとそれくらいしないと、わかってもらえないわ」
続いてディートリンデは白狼の背中を叩き、「さ、やっておしまい」と命じた。
『やっておしまい』とは穏やかではない。
何をさせるつもりなのか。
……いや、なんとなくわかる。容易にわかってしまうことだ。
加えて、ろくでもないということだけは確信できる。
それはつまり、
「さぁ、シェラネス!」
けれども、アルはその言葉にピクリと反応したのみで動きを止めた。
そんなアルにディートリンデは業を煮やしたのか、強い口調で「行きなさい! 行け!」と叫ぶ。
瞬間、小さな白銀の星がはじけ飛んだ。
ダンッ、と地を発つ音だけがして、白狼の姿が消える。
一直線の軌跡を描き、白銀の矢がこちらに飛んでくる。
あまりの速さに姿を捕捉しきれず、私の眼にはそんなふうに映った。
勢いに
狼の弾丸は鼻先をかすめ、止まることなく即座に方向転換して跳ね上がり、貴族たちの中へと飛び込んでゆく。
「──うわあぁっ!」
「きゃぁっ──!」
「な、何だっ──!?」
そして、場内は一瞬で嵐の惨状と化した。
リリィに向かうよう命ぜられたはずのアルは、何故かそのまま縦横無尽にホールを駆け回り、飛び回った。
まるで爪と牙を伴った暴風。
彼の動きは純白の残像を伴って無数の軌跡を形作る。
その暴走に食器は散乱し、テーブルクロスは引き裂かれ、貴族たちは口々に叫びを上げる。
しかし、あくまでも標的はリリィ。
つかず離れず、アルはリリィと一定の距離を保ちながら、ヒットアンドアウェイで彼女を襲い、そのドレスを切り裂いた。
「い……嫌ぁっ!」
「──リリィさんっ!」
「ぁ、アル……! アル、やめて! どうして!」
「あはははは! 一思いにではなくじわじわとというわけね! シェラネスったらやるじゃないの!」
場内の喧騒を気にした様子もなく、ディートリンデは高笑いする。
「っ、やめさせなさい! このままじゃ収拾がつかなくなる!」
リリィのもとに駆け寄り叫んだ私に対し、ディートリンデはこちらを一瞥すると煩わしそうに眉を寄せた。
「何、あなた? 人間の分際で私に命令する気?」
「なっ……」
随分な言い草だ。自分もつい最近まで人間だったくせに。
というか、覚えてないのか、私のことを。
しかも髪色が銀でない私をリリィの侍女か何かだと勘違いしているらしい。
以前にも増して居丈高な態度で、彼女は私を見降ろし、睨みつけてきた。
「それどころじゃないでしょう! 他の方にも被害が及んでいる! あなたがけしかけたのなら、さっさと止めなさい!」
「はぁ? これは私たちサラドゥアン家の問題よ。どこの馬の骨とも知れない女にとやかく言われる筋合いはないわね。そっちこそ退がりなさい!」
(ダメだこいつ、話が通じない……。っていうか、会話を成立させる気が端から無いみたいだ)
なんというか、別の生き物を相手にしているようだった。
意思疎通ができない。
このお姫様、一体何を考えているのか。
これでは夜会はぶち壊し、自身の名声を地に落とすも同然の行為だというのに。
魅了の力ですべて解決できるとでも思っているのか。
あるいは、最終的に騒ぎをアルと元の飼い主であるリリィのせいにして、自分に責めはないとでも言うつもりか。
(違う、今はそんなこと考えてる場合じゃない!)
私は思考を中断し、狼の射線とリリィの間に割って入った。
とにかくリリィを守らなければ。
そう思い、近くのテーブルからステーキナイフを一本拝借し、構える。
こんなもので魔獣をどうにかできるとは思えないけど。
「ソフィア様!?」
「リリィ、私の後ろに! 大丈夫よ、これでも剣の腕には自信があるの!」
カラ元気で笑顔を作ってリリィに向ける。
その間にも白の暴風は聴衆とテーブルをかいくぐり、高速で駆け回りながらこちらとの距離を縮めてきた。
「──くっ!」
唸り声と空気の流れで何とか攻撃射角を察知する。
耳障りな金属音。
逆手に持って胸の前で構えたナイフに、爪が当たって火花が散る。
運の良いことに、今の強襲での負傷はない。
とはいえ、かろうじてだ。
あまりの速度に動きを追いきれなかった。次はおそらく対処できないだろう。
受けた感触からも、その確信があった。
「ソフィアちゃん!」
後ろから名を呼ばれる。
ルーファス王子がこちらに駆け寄ろうとする。
「危険です、殿下! 退がって下さい!」
「おい、どうした! 何だこの騒ぎは!」
それに続いて聞き慣れた声。
早足の靴音とともに。
人波をかき分けて入ってくる我が主、ジュリアスの姿が見える。
「──ソフィア!? 何だこれは、どうなっている!」
言いながらも一目で状況を把握したのだろう、ジュリアスは即座に射殺すような視線でディートリンデを睨みつけた。
「貴様ッ──」
「大丈夫です、ジュリアス様! 私がなんとかしますから!」
「何!?」
「なんとかって……君こそ退がるんだ、ソフィアちゃん! 君はこの騒ぎには何の関係も無いだろう!」
「いいえ、あります! 本当に大丈夫ですから、近づかないでください!」
「なっ──」
私の返事に王子もジュリアスも戸惑った表情で動きを止める。
危険は承知のうえだった。
わかっていても、私にはここで引き下がれないいくつかの理由があった。
ルーファス王子とジュリアスの姿を目にして、気付いたのだ。
そのうち一つは白き狼の魔獣、アルのこと。
魅了の魔力に侵されて、アルは正気を失っている。
けれどこの子に罪はない。ただ操られているだけだ。
それどころかアルは抗っている。リリィを傷つけまいと衣装だけを切り裂くに留め、他の貴族たちにぶつかることもない。ディートリンデの命令にも、最初は動こうとしなかった。
つまり、白狼は理解しているのだ。
人の倫理観を。皆を傷つけてはならないと。
だからこそ、リリィに一直線に向かわずに飛び回って周囲にあたることで衝動を抑えている。
ただ、おそらくそれにも限界が来ている。
ここで私とリリィが避難しようとしたなら、被害はさらに拡大するに違いない。
加えて、アル自身も最期には殺処分されてしまうだろう。
そうさせないために、渦中にいる私がアルを静めるよう事態を誘導する必要があった。
そして、二つめ。
私はこの場を収める方法を知っている。
先刻の殿下との会話。私自身も吸血種である以上、そこで新たに知らされた『吸血種としての力』を使うことができるはずだ。
きっとそれが、この騒動を収める鍵となる。
この手を採らずしておそらく他に途はない。
最後に、三つめ。
「あるんですよ……殿下、私がここから引き下がれない理由が!」
それは単に感情の問題。私のわがままでしかなかった。
けれど、一番大きな理由でもある。
私が私として、譲ることのできないもの。
……いや、そんなかっこいいものでもないか。でも、性分なのだ。
「友達なんです、リリィは!」
「な……何だって?」
「私たち、友達になったんですよ! 困っている友人を助けること──これ以上に何か理由が必要でしょうか!?」
「い、いや、ソフィアちゃん。友達って……」
聞き間違えたかとでも言いたげにあっけにとられる王子。
その横でジュリアスも似たような顔になる。
しかし、我が主は小さく肩を震わせて、やがてはくつくつと笑いを漏らした。
彼は一歩踏み出し、私に問う。
「ソフィア。一つ確認しておくが、そう言うからには何か考えがあるんだろうな?」
「はい、もちろんです!」
「……自信は?」
「あります、当然!」
「……ならばいいだろう。この場はお前に任せる。やりたいようにやってみろ!」
「ちょっ、ジュリアス!?」
何故だかジュリアスは嬉しそうだった。
快諾する彼とは対照的に、ルーファス王子は慌てた様子で声をあげる。
「はいっ、ありがとうございます!」
礼を言い、私は身体を反転させる。
持っていたナイフを床に置き、ヒールを脱いで、右半身を前に。
手袋を脱ぎ捨て、指先を伸ばし、手刀を形作る。
「リリィ、心配しないで。あなたもアルも、絶対に私が傷つけさせない」
「ソフィア様、何を……?」
突き出した右手はエサだ。
あえて遠慮なく食らいつかせる。それこそが狙い。
ジグザグだった白狼の軌道がこちらの目線とかち合い、一直線になった。
向かってくる。目にも留まらぬ速さで。
「さぁ……来なさいっ!」
覚悟を決める。己が両目を見開き、気迫で恐怖を噛み殺す。
瞬間、獣の咆哮。
そして──飛び散る鮮血。
真っ白な牙が、私の右腕に深く突き刺さった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます