第11話


「──ジュリアスの血の支配がさ、どうもソフィアちゃんには及んでないみたいなんだよね」


 アルの暴走が起こる前。

 私の血の解析結果について、ルーファス王子はそう言って首を傾げた。


「血の……支配?」


 初めて聞く言葉だった。

 少なくともジュリアスからは一言も聞かされていない。

 

 といっても、そう入り組んだ話じゃない。

 吸血種の血を与えられて寵妃になった者は、主に身も心も支配されてしまう。

 血の魔力によって寵妃が虜とされることを、文字通り『血の支配』と呼んでいるそうだ。


 つまり、寵妃が主に服従を誓うのは、何も規範的にそうあれという話ではなく。

 実際問題としてそうなってしまうということ。


 悪く言うなら、それは呪いのようなものとも表現できる。


 とはいえ、強制力の度合いは人によってまちまちで、主に対し諫言が可能な寵妃もいれば、完全に心酔してしまうものまで、個人差があるらしい。


「でも、ジュリアスの血を採ってみたら、かなり高い魔力値が出たんだよね。あれを飲んでソフィアちゃんが今みたいに普通にしてるのは驚きだし……。何より血の影響を受けた兆候が、数値的にもまったく見られないんだよ」


 要するに、ジュリアスの血の支配力は相当なものであるはずなのに、私はそれに侵された形跡がない。それこそが王子の言う「特異な値」というわけだ。


 そして、気になるのはどうしてジュリアスがこのことを私に黙っていたかということ。


『吸血種になってから、己の身体にどこか変化は見られないか。たとえば今、胸の奥が熱く感じるだとか──』


 以前ジュリアスがそう尋ねたのは、おそらく血の支配が及んでいないかを確かめたかったのだと思う。

 本来なら胸の奥が熱く感じる……そういう症状が出てくるはずが、私には兆しすら見られず、平然としていた。

 王子に診察を頼んだのも、それを確認する意図があったのだろう。


 それで不信感を抱くわけじゃないけど、教えてくれない理由くらいは知りたかった。

 だから私は、ジュリアスが戻った時に聞いてみるつもりだった。


 けれども、まあ……今はそれどころじゃなくなったわけで。


 ただ、直前に聞いたこの内容が、まさか白狼を抑える要になるとは、さすがにこの時の私が知るよしもなく──




 



「魔獣が……止まった……?」


 ルーファス王子はこちらを見て、呆然とつぶやいた。

 

 静寂が辺りを包む。

 王子だけでなく、すべての衆目の視線が驚きの眼をもって私とアルに向けられていた。

 

「ア……アル?」


 リリィが小さく呼びかける。

 呼びかけるというよりは、多分それは無意識のうちに出た言葉だろう。


 でも、ごめん、リリィ。もうちょっとだけ待って。

 あと少しだけ、アルを貸していてほしいから。


「ソフィア……おい、ソフィア!」


 わずかの沈黙の後にジュリアスが叫んだ。

 彼の声に狼狽の響きが混じっていたのも、やむないことだと思う。

 何故なら今の私は右腕のみならず、肩口全体を腕ごとアルに噛まれ、押し倒されていたからだ。


 残った左手をジュリアスに突き出して、目線で彼を留める。

 灼けるような痛みで、上手く声が出せなかった。

 けど、ここからはちゃんと喋らないといけない。

 アルを抑え、彼に命令するために。


「良い子ね……アル。よく止まってくれたわね。私の血を……飲んでくれたのね」


 そして、私は出来るだけはっきりと、皆に聞こえるように「伏せなさい」とアルに命じた。

 すると白狼はためらう素振りを見せつつも、従順に自らの牙を引き抜いた。


「ぐっ……ううぅっ!」


 激痛がはしり、涙を抑えられない。

 噛まれたところからとめどなく血が流れだす。

 アルがためらったのも、この傷口が開くのを心配してのこと。

 それでも、今の私は吸血種。たとえ袈裟懸けに肉を裂かれようと、致命傷に至ることはない。


 怪我もすぐに治る。気を失いそうな程の痛みは伴うけれど。


「アル、起きて」


 私が言うと、狼は顔を上げた。

 左手で頭をなでてあげると、安心したように目を閉じ、自分から擦り付けてくる。拒むような様子は見られない。


「ど、どういうことなの……」


 私に従うアルを見て、ディートリンデが愕然とした表情でつぶやいた。

 どうして私の命令に従わないの、と。



 すなわちそれが──『血の支配』の力だ。

 


 アルは私に噛みつき、そこから流れる血を飲んだ。

 吸血種たる私の血を。

 純粋な真祖でない元人間の私であろうと、吸血種であることに変わりはない。


 血を飲んだ者が、その血を流した者に支配される。

 ならばアルが私の血を飲めば、私の支配下に置かれ、私の命に従わせることも可能なはず。


 それこそが、この場を収める最善手──アルとリリィを救うため、私が思いついた考えだった。



 私の血でディートリンデの魅了の力を上書きできるかは、正直一つの賭けではあった。

 でも、今の状態を見る限り、どうやら私は賭けに勝ったらしい。

 それはアル自身が心の底で魅了の魔力に抗っていたせいもあると思う。


 床にへたりこむ私に、アルは近づいて肩の傷をなめる。

 健気な子だ。

 ディートリンデに洗脳されるより前、リリィと仲睦まじく戯れるイメージが脳裏に浮かんだ。


「優しいのね……。でも、大丈夫。こんなもの……痛くないわ。……あなたに比べたら。あなたの操られる苦しみに比べたら、こんなの全然大したことないんだから」


 苦痛を顔に出さないよう努めて、なんとか立ち上がる。

 心配はかけられなかった。アルにも、リリィにも、そしてジュリアスにも。


「……アル、あなたに対して、あなたの血の主として、最初で最後の命令を出します。どうか従ってくれると嬉しいわ。……あなたが主人だと思う者へ、本当の主だと思う者のところへ行きなさい。そして、その人のもとでひざまずきなさい。その瞬間からあなたは……私の血からも、ディートリンデの魔力からも解き放たれる」


 アルは怪訝な様子で小さく鳴き声をあげた。

 言葉は理解しているはずだ。この魔獣にはそれだけの知能がある。

 今までの挙動から、それはわかっている。


「自分の心に従って、自らの主を見定めて欲しいの。私の血や、魅了の魔力なんかに縛られることなくね。私はあなたを縛っていた枷を外しただけ。今のあなたはいかなるものからも自由。だからこそ、あなた自身で決めなければならないのよ」


 強く言い聞かせるように語り掛け、私はアルに背を向ける。

 白き魔獣はしばしその場から動かず沈黙を守っていたが、短くウォンと吠えると、こちらとは反対方向に動き出した。


 その鳴き声がお礼のように聞こえたのは、私のうぬぼれだろうか。


 そして、アルは確かな歩調で進む。

 本当の主人のもとへ。

 気配で動きを感じていた私が振り返って見たその時、リリィは狼をひしと抱きしめ、あふれんばかりの涙を流した。


「アル……アル! おかえりなさい……!」


 泣きじゃくるリリィに対し、アルは静かに寄り添って彼女を受け止めた。

 それこそがあるべき本当の二人の姿。

 先刻の不安定な状態とは明らかに違う、主に仕える忠実な獣と、ただ純粋に友の身を案じる少女の姿がそこにはあった。


(よかった……)


 私は心の中で、ほっと息を吐く。

 これでもう、この子が暴走することはない。

 誰かの身勝手な命令に振り回されることもないだろう。


 ただ、まだ安堵した顔を外に出すことはできなかった。

 あと一つだけ、私にはやるべきことが残っていたから。


 私は裸足のまま進み、少し離れたディートリンデの視界に我が身を入れた。

 アルを睨みつけ、わなわなと震える少女。その視線を体でさえぎる。


 あえてそうしたのは、怒りの矛先をこちらに向けさせるため。

 きっと彼女は思い通りにならなかった怒りをアルにぶつけようとするはずだ。

 理不尽な八つ当たりを。もしかしたら、誰かに命じてアルを殺させようとすらするかもしれない。

 そうならないよう、逆恨みの感情はすべてこちらで引き受ける必要があった。


 私はできる限りの悪辣な笑みをつくって、ディートリンデに言い放った。


 大きな声で。

 周りの貴族たちにも聞こえるように。


「──なぁんだ。魅了の力っていうのも案外大したことないのね」


「っ! なんっ──」


 口元を手で隠してアハハと笑ってやると、彼女の顔が一気に紅潮し、こめかみのあたりに血管が浮き上がる。


 と、その時。パンパンという拍手の音とともに、一人の男が騒ぎの輪の中へと入ってきた。


「いやぁ、お見事、お見事! いいものを見させてもらったよ」


 皆の視線がそちらに集中し、にわかにざわめきが起こる。

 口ひげをたくわえ、黒のタキシードを着こなした長身の老紳士。

 他の貴族と同じ髪と目の色で、当然彼も吸血種だ。

 ただ、堂々たる態度は並ならぬ風格を感じさせ、付近の者が道を空けたことからして、貴族の中でもひときわ身分の高い者らしかった。


「レガート公爵」


 ジュリアスが老紳士の名を呼びながら、足早に駆け寄ってくる。


「やぁ、ジュリアス君。……いや失礼、公爵殿。この子が以前話していた、君の新しい寵妃だね。噂通り面白い女性のようだ」


「……お見苦しいところをご覧に入れました。申し訳ありません」


 にこやかな様子の老紳士に対し、ジュリアスは固い表情で頭を下げた。

 続いてジュリアスは私を一瞥し、無言の視線で「大丈夫だから動くな」と、こちらを制する。


「いいじゃないか、こういうのは好みだよ。彼女は自分の身体をまとにかけ、誰も傷つけることなく場を収めてみせた。いや、なかなかできることじゃない。しかも、魔獣を正気に戻すというオマケつきだ」


 「楽しませてもらったお礼に観劇料を払いたいくらいだよ」、そう言ってレガート公爵は朗らかに笑った。


「……恐れ入ります」


「誰かのために自らが汚れることをいとわない。それは純正の吸血種には持ちえない、得難い気性といえる。例えるなら、泥の中で輝く宝石にも似た気高さだ。そうは思わないかね、皆の衆?」


 老公爵が周囲に同意を求めると、ルーファス王子が同調するように手を叩く。

 するとまばらに拍手が起こり、次第に音は大きなものへと変化していった。


 そこで私は彼の真意を悟る。

 

(そうか、これは……。騒ぎを収束させるために、主催の公爵が自ら出てきたというわけね)


 ありがたいことに、夜会の主たるレガート公爵は度量の大きい人物のようだった。

 彼はこの騒動に腹を立てることなく、自らが先んじて和やかに場を取り仕切ろうとしてくれている。


「それから、サラドゥアンの新しいご夫人。ディートリンデ……といったかな? 君のチャームの魔力も大したものだ。だが今回は、少々引き際を見誤ったようだね」


「な、何を言っているのですか! 私はまだ──」


「これ以上食い下がっても恥を残すだけなのは、さすがにわかると思うがね。君は少し物事を俯瞰して見ることを覚えた方がいい。近くの者は惑わせても、『それ』のみではこの先きっと苦労するよ」


 諭すような語りに気勢をそがれたか、ディートリンデは「うっ」と言葉を詰まらせた。

 そして、やがては彼女も観念したらしく、最後は騒ぎの中心から引き下がる。


 熱した空気が急速に冷めていくのを、その場の誰もが感じ取っていた。


 ……もう、大丈夫。

 これでようやく終わるのだと、私も肩の力を抜く。


(って、あ、あれ……?)


 けれど、それが皮切りでもあった。

 気を抜くと同時にぐらりと視界が揺れた。

 その時は気付かなかったけど、すでに体は限界にきていたらしい。

 いくら吸血種でも、さすがに血を流しすぎていた。


 たがが外れた私の体は、踏ん張りがきかずにそのまま落ちてゆく。

 

(あ、ダメだ……)


 目の前がぼやける。こらえることができない。


 ──ごめんなさい。せっかく選んでくれたドレスを血で汚してしまって。


 最後にそれだけはジュリアスに言おうと思っていたのに、意識が体についていかず、言葉にならない。


「ソフィア!」


 頭から倒れこむ私を、聞き慣れた声が寸前で抱き留める。


 ……なんだかこんなこと、前にもあったような。


 そんなことを思いつつ、ジュリアスの腕に抱かれ、私の意識は暗転したのだった。


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