第17話◆


 ジュリアスにとって今回の旅は、ほぼすべてが初めて尽くしだった。


 いくらわがままな当主とはいえ、彼にも自重する一線はある。

 どんな時も好き勝手するわけではなく、それこそ一人で国外に出るようなことはない。


 だから今回の出立も、彼の中では自分のわがままというよりは、ソフィアの頼みを聞いてやったという意識の方が強かった。

 彼女のためなら、それは何よりも優先される。

 ジュリアス自身明確に思っていたわけではないが、彼にとってのソフィアの存在はいつしかそれくらいの比重を持ち始めていた。


 もちろんせっかくの小旅行である。自分が楽しむという意図もあった。

 道中機嫌が良かったのはそのためだ。


 グランセアの城下町。

 同国の平民からすれば一番栄えている都心部ではあるが、ジュリアスにとっては辺境の地方都市くらいの印象しかない。

 加えて、今いるところは下層の大衆酒場だ。

 アルマタシオの公爵がそんな場所へ足を運ぶなど初めてのこと。

 店内に満ちる喧騒、あてがわれたのは背もたれすらない木箱の椅子。

 その身分を知る者が聞けば、卒倒するほどの待遇といえるだろう。


 だが、そんな扱いにもジュリアスが怒りを見せることはなかった。

 終始穏やかな笑顔。彼にとって未知の世界を知れるという一点だけで、この旅は十分に価値のあるものだった。


 ソフィアが寝室で聞かせてくれた彼女の国の文化や風習。それを自らで体験できるのだ。


 “これ”だからいいんだよ。

 誰かに問われたなら、おそらく笑ってそう答えるに違いない。

 

 ソフィアとは別のテーブルで、騎士団の男たちと杯を交わすこともまた一興。

 ほんの少しの不満といえば、己の寵妃がかつての同僚と昔話に花を咲かせ、普段見せない開放的な笑顔で親しげにしていることくらい。


 それでもジュリアスは、この状況を最大限に満喫していた。



 

「フリオ君だったかな。どうだい、うちの家内の料理は?」


 宴もたけなわといった時分、黒髪の壮年の男性がジュリアスの向かいに腰かけた。

 確かソフィアが隊長だと紹介してくれた男だ。

 サキサカといったか。長身で細身の体躯、人の好さそうな風貌だが、隊を任されているだけあって、その佇まいからは怜悧さものぞかせている。


「ああ、堪能させてもらっている。どれもなかなかの味だ」


「生の魚とかは大丈夫だったかな?」


「あまり食べることはないが……この酒が合うからかな。自分でも驚くくらい食が進んでいるよ」


「それは良かった」


 にこやかな表情でサキサカはジュリアスの杯に酒をつぎ足す。

 米から醸造したという東方由来の清酒。

 澄みわたった液体が注がれると、サキサカは自分の器をジュリアスの持つ同じものにかち合わせた。


 二人は同時に盃を煽る。


「やあ、いい飲みっぷりだね」


 ガラス製の小さな器が空にならないよう、サキサカはすぐさま次の酒を入れる。

 ジュリアスはそれを遠慮なく、水のように飲み干した。


「……フリオ君は、お酒は強い方なのかい?」


「まあ、そうだな。俺たちの種族……いや、俺は体質的に酔いにくい性質たちなんでな。この国の人間よりは強いと思う」


「へぇ」


 サキサカは感心したようにうなずき、「それなら酔わせて口を滑らせるなんてことは期待できないか」とつぶやいた。


「……何の話だ?」


 ジュリアスはやや険のある声で聞き返す。


「いや、大したことじゃない。君にお酒をたくさん飲ませて色々聞き出そうとしただけの話さ」


「何をだ」


 多少ムッとして言った後、すぐにジュリアスは気付く。目の前の男の言葉はただの軽口で、本心ではないことを。

 本当に酔い潰すつもりならわざわざそんなことは言わない。明かした時点でその目論見は意味をなさなくなり、相手の機嫌を損ねるだけだ。

 むしろそんな軽口を叩くことでどれほど踏み込んでも問題ないか、距離を測っているのだろう。

 サキサカの意図をそう推察したジュリアスはいくぶんか声色を穏やかに変え、言葉をつけ足した。


「別に隠すようなこともない。聞きたいことがあるなら答えるぞ。俺が可能な限りでだが」


「どうもありがとう。なら遠慮なく」


 サキサカは笑顔で謝意を示し、さっそく尋ねる。


「うちのソフィアが嫁いだ先でちゃんとやれているか、どんな暮らしをしているか。そのあたりを教えて欲しいんだ」


「……そっちか!」


 ジュリアスは思わず声をあげ、脱力した。

 てっきりアルマタシオの政治や国勢、あるいは外に伝わっていない吸血種のことを聞かれると思ったのだ。

 だが、考えてみれば近しい者の近況の方が気になるのも当然のこと。

 「うちの・・・ソフィア」──年齢や互いの関係からして、彼女の保護者的な意識もあるのだろう。

 自分の寵妃がそれだけ思われていることを嬉しく思い、ジュリアスは向かいの男に胸襟を開くことにした。


「何から話せばいい。こちらでの暮らしといっても色々あるが」


「さしあたっては……そうだな、ファルケノスの公爵がどんな人なのか、聞かせてくれるかな」


「公爵?」


「そう。ソフィアの旦那様である公爵閣下」


 しかし、いきなり想定外の質問だった。

 ファルケノスの公爵。つまりは自分のことである。

 どう答えたものかとジュリアスは眉を寄せ思案する。


「気性は激しく尊大で高慢。身内以外には容赦のない自分本位な人物……といったところか」


「おいおい、自分の主をそんな悪しざまに言っていいのかい?」


「俺の感想じゃない。あくまでそういう評判だと聞いているだけのことだ」


 その言葉にサキサカは「いいや」と頭を振った。


「周りの話よりむしろ彼を見ている君の見解を教えてくれないか。特に……そう、公爵はソフィアを妻としてきちんと愛しているのか。そのあたり、君の目から見てどうなのかを」


 愛しているか。

 大の男が臆面もなくそんな言葉を口にするということは、それだけ真剣に聞いているとみるべきだろう。

 身分が違い、正体もバレていないとはいえ、そんな者の問いかけを適当にあしらうのはさすがにためらわれた。

 ジュリアスは気付かれないよう息を吐いた後、ゆっくりと言葉を紡ぐ。


「最初は……予想外の事故だった。そもそも公爵はソフィアを娶るつもりはなかったんだ。だが、その身を助けられた手前、瀕死のソフィアを放っておくことはできなかった。だから公爵はソフィアを寵妃にした……と、聞いている」


「……どういうことかな」


 首をかしげるサキサカ。瀕死になったことが娶ることにどうつながるのか。吸血種を知らないグランセアの人間にわかるはずもない。そもそもソフィアが瀕死になったことからして初耳である。


 「つまりだな」と、ジュリアスはこれまでの経緯とアルマタシオの内情を語って聞かせることにした。


 吸血種、その不死性、主と寵妃……。大まかな説明を聞き終えた後、サキサカは驚愕の様相でジュリアスを見る。


「……なるほど、それは……すごい話だね……」


「さすがに信じられないか?」


「いや、アルマタシオが色々と神秘な国だというのは聞いているよ。ただ、なんというか……身近で起こるとは思わなくてね」


「まあ、確かにそうあることではないな」


 様々な偶然が折り重なって今の状況がある。

 言葉にしてみることで、ジュリアス自身も数奇な経過をたどっているなと改めて思った。

 

「それならもうソフィアは、今までのソフィアとは違うということなんだろうか」


 そして、彼女が人間でなくなったことは、近しい者からすればさらなる衝撃であったろう。


「いや、本質は変わらない。たとえて言うなら寿命が延びただけのようなもので、ソフィアの人格はあくまでソフィアのままだ。他の寵妃はともかく、少なくともあいつに限ってはな」


「解呪の血……というやつのせいで?」


「そうだ」


 幸運にもその力があることで、ソフィアの心は誰かに依ることもない。

 しかし、それを聞いたサキサカは意外にも一層心配する表情となり、さらなる問いをジュリアスに投げかけた。


「しかし、それは……大丈夫だろうか。そのことでソフィアが公爵に見捨てられたりなんてことは……」


 つまり、血の支配を受けず主に従属しない女など公爵は欲しがらないのではないか。サキサカはそれを懸念する。


「……そうでもないさ」


 ジュリアスは首を振り、静かに言った。


「公爵が望むのは、心から笑っている女だ。血の力で何人虜にしようと、そんなものには何の意味もない。彼自身、ソフィアに解呪の血の特性があるとは予想していなかったが……結果として良い方向に偶然が作用したんだろうな。少なくともソフィアが寵妃であることに、現状不満を抱いてはいないはずだ」


「公爵は、ソフィアを愛していると思うかい?」


「……さあな。だが、気に入ってはいるはずだ。飾ることもなく、ただ懸命に前だけを向く女など今までいなかった。あれを見ていると……まぶしくて、知らず知らずのうちに惹かれていく自分がいる」


 ジュリアスは振り返り、斜め後方のテーブルにいるソフィアに目を向ける。

 それからハッとして、「公爵がそう言ったんだ」と、焦った様子で言葉をつけ足した。


「噂ではアルマタシオの貴族は何人もの女性を侍らせていると聞いたけど。それに関してソフィアの方はどう思っているのかな」


「いや、公爵の寵妃はソフィア以外にいない。以前はともかく、現時点ではあいつ一人だけだ」


「『以前はともかく』?」


「ずっと昔、女が一人いたが死別している。それ以来、公爵は誰を迎えることもなく独りでやってきた」


「……では、将来的には?」


「今のところは新たな寵妃を迎えるつもりもない。言っただろう、血の力で他者を従えさせたところで何の意味もないと。彼が寵妃に望むのは、そういう関係ではないんだ」


「そうか……」


 サキサカはどこか安心した様子で大きく息を吐いた。

 ジュリアスが「満足する答えは得られたか」と問う。すると彼は、「十分に」とうなずいて返した。


 そして、吹っ切れたように酒杯を掲げる。


「よし、飲もう! ぶしつけな質問ばかりで悪かった。お詫びというわけじゃないが、店にある酒好きなだけ飲んでくれて構わない。今夜は私の奢りだ!」


 晴れ晴れとした表情で白い歯を見せるサキサカ。

 その声を聞き付け、二人から距離を取っていた隊員たちがわらわらと集まってきた。


 続いてソフィアも一拍遅れてジュリアスのもとへやってくる。


 「どうかしたんですか?」、そう尋ねるソフィアに対し、サキサカは「男どうしの内緒話ってやつさ」とうそぶく。

 ジュリアスもこの時ばかりはそ知らぬ顔をして、彼の方へと調子を合わせてやるのだった。



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