第32話◇


 エルネスタと俺は、幼い頃から見知った仲だった。


 いわゆる幼馴染というやつだ。

 両者ともまだ背丈がドアノブに届くかというくらいの時分、外の世界を知らないあの頃は、何をするにも二人一緒だった。


 我がファルケノス公爵家に比べ、エルネスタとタニアの実家であるラズノフ男爵家は、ぽっと出で大した力もない。

 ただ、俺たちの親は思いのほか気が合い、あまり例を見ないことに家柄の差を超えた気兼ねのない付き合いをしていた。


 俺とエルネスタ、それから遅れて生まれたタニアにしても同じだ。

 生来、相性が良かったのだろう。まだ性別を意識しない幼少期は、何も考えず、遠慮なく軽口を言い合い、笑い合う関係を三人で築いていた。




 時は過ぎる。

 俺とエルネスタが男女の関係になるまで、そう時間はかからなかった。

 エルネスタは美しく成長し、波打つ銀の髪はどの吸血種のものよりもきらめき、赤の瞳はいかなる宝石よりも輝いて見えた。

 惚れたひいき目があることも、まあ、否定はすまい。


 そして、俺たちも他の同族と同じように、血を飲ませることで契りを交わし、正式に主と寵妃の関係になることが当然のこととして予定されていた。


 もっとも、二人とも最初から想い合っていたがゆえに、血の契りなどに意味はないと考えていた。

 そんなものはただの儀式にすぎない。何があろうと二人の関係が変わることはないと、大した感慨も持たなかった。


 今思えば、それこそが致命的な過ちだったのだが。


 ……ほんの数滴だ。

 たった数滴なのに、それをエルネスタに飲ませた日からすべては変わってしまった。




 最初は、なんてことのない変化だった。


 血を飲ませた後、エルネスタは俺のことを「ご主人様」と呼ぶようになった。


 そんなへりくだるような仲じゃないだろう、今まで通りジュリアスと呼んでくれと何度言ったことか。

 にもかかわらず、彼女は記憶が欠落したようにその呼び方を止めなかった。


 続いて、だんだんと彼女から自我が失われていった。

 エルネスタは自分の望みを口にすることがなくなった。身体を火照らせ、熱に浮かされたように俺だけしか目に入らず、どんな時も俺に付き従うようになった。


 そして、ついには俺を讃えるだけの動く人形、生ける屍に成り果ててしまう。


 俺にひざまずき、俺にすがりつき、俺を愛そうとするだけの女。

 夢遊病者と変わらない。どんな言葉を紡ごうと、それが彼女の心が発したものでないことは一言聞けばわかる。


 ──これが愛だと? こんなものが愛だといえるのか!?


 いつか三人でいる時に見せた、理知的な姉としての面影など欠片もない。


 今まで己の血を誰かに飲ませたことなどなかった。だから、この血が彼女の心を失わせてしまうなんて、まるで予想だにしていなかった。


 ……そうじゃない、わかってる。

 そんなことは言い訳にもならない。

 すべては俺が原因だ。俺がエルネスタの心を壊したのだ。


 エルネスタの症状を見て、いかなる方法でもこれは治しようがないと直感した。己の血の恐ろしさを、肌で理解してしまった。

 あの頃はルーファスも医術を学び始めたばかり。助けを求める相手も見つからず、俺は自棄になったまま数か月を過ごす。


 そして……別棟に軟禁した彼女に会いに行ったあの日、事件は起きた。


 ファルケノスの当主となった俺を狙う他家の貴族が、暗殺者を送り込んできたのだ。


 後のソフィアの時と同じだ。


 エルネスタは、俺をかばって銀の刃を胸に受けた。

 

 未だにまぶたに焼きついて離れないあの光景。

 ソフィアが斬られた時も、倒れ込むソフィアがエルネスタに重なった。情けないことに、俺はただ守られるだけだった。


 倒れ込み、焦点の定まらない瞳で言った最後の言葉は……「愛しています、ご主人様」。


 ──そんな言葉が欲しかったんじゃない! 


 俺は、彼女に生きていてほしかった。ただ笑っていてほしかった!

 それだけのことがどうして叶わない! 何故だ! 何がそうさせた!


 ……俺が殺した。

 心を奪い、自由を奪い、凶刃の前に立たせたのは俺の血だ。

 そうだ、俺が、この俺が殺した!

 何をもってしても取り返すことなどできない。

 この俺の存在自体が罪であり、俺こそが災厄だ! 他に何がある!

 



 ……それゆえに、俺はソフィアに血を与えるのをためらい、選ばせた。




 暗殺を仕掛けてきた貴族は、すでに一族もろとも始末している。

 大方を潰した後の残党も、ソフィアを襲った暗殺者から辿って、生き残りはすべて極秘裏に処理させた。ソフィアは知りもしないだろうが。



 そもそもディートリンデを娶ることを勧められたのは、寵妃として秘めた魔力の大きさが図抜けていたからだった。

 もしかしたら俺の血の支配にも抗うことができるのではないか──配下の者たちがそのように期待し、俺の意向を無視して縁談を進めたことが背景にある。


 俺はさほど乗り気でもなく、エルネスタを亡くしてからは外との関わりをほぼ絶っていた。だから相手に悪いという気持ちも幾分かあった。ディートリンデが別の男と逃げたと聞いた時は、少し安堵したくらいだ。

 

 だが、そんなことより何より嬉しかったのは──身代わりで来たはずのソフィアが、俺の血の支配などものともしない女だったこと。

 

 きっと誰にもわからないだろう、あいつの存在がどれほど俺を救ったかを。

 単に血を飲ませなければいいという話ではない。俺の血が、俺そのものが人を侵す毒であり劇薬なのだ。

 その毒で、いずれ大切な人を傷つけてしまうのではないかという恐怖。それがずっとこの身を縛り続けている。


 けれどソフィアはそうじゃない。俺の血を受けても変わらず笑っていられる。

 まだ少しこちらの顔色をうかがいながらも、それでもふとした時に見せてくれる本物の笑顔が、どれほど俺を癒してくれるか。


 あいつ自身は気付いてもいないのだろう。

 それでもいい。

 それでいい。

 


 だが──だからこそ、俺は望む。



 来るなよ、ソフィア。

 こんな下らない場所に、お前の血だけを求める愚物の吹き溜まりなんぞに、お前が来る必要はない!


 俺のことは気にしないでいい。

 おそらくタニアもお前を留めるに違いない。

 万が一、お前の身に何かあったなら……今度こそ俺は正気でいられない。


 こんな俺などのために誰かが身代わりになるなんてことが、もう二度とあってたまるものか。


 結界にとらわれた中、俺は一人そんなことを考える。




 しかし、その願いもむなしく、広間の入口が開かれる。

 扉が軋む耳障りな音。一同が視線を集めた先にいたのは、騎士服に身を包んだ金髪の女。


 すなわち、我が唯一の寵妃──ソフィア・ファルケノスだった。


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